自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由研究 ~自由とは不自由でない状態なのか~

自由とは、自由という何かが手に入るのではなく自由な状態であるというのを思いついた。自由とは不自由ではない状態・制限を不自由と捉えない心の在り方だと思う。

 

不自由な状態とは?

自由権から、自由の種類を見ていく。精神的自由・経済的自由・身体自由の三つが自由の種類である。

精神的自由:思想・良心の自由・信教の自由・学問の自由 

       表現の自由集会の自由・結社の自由

経済的自由:職業選択の自由・居住移転の自由・海外渡航の自由

身体的自由権(人身の自由):法廷手続きの保障・刑罰内容の保障

             刑事裁判手続き上の保障

 

出典[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%A8%A9]

つまり、この自由権を制限はく奪されたら外的要因での不自由な状態と言える。外的な要因ならば、自由権を剝奪されない限り法律で規定されているのだから、不自由じゃない状態に戻ることができる。

 

内的要因の不自由な状態とは?

内的要因の不自由な状態とは、心理学用語を使うなら自己義務の意識が強すぎる状態や自分なんか無理という否定的アイデンティティの状態といえる。もっと幅広く定義するなら「何かを理由に挑戦しないという心の在り方」や「物理的に不可能にも関わらず欲求する姿勢」などが上げられる。宗教の力を借りるなら、キリスト教七つの大罪である、傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・色欲・暴食・惰性にとらわれることかも知れない。だが、マズローの五段階欲求説から言って生理的欲求と安全的欲求は求めるのは必然なので、これに囚われてしまうのはしょうがないと思う。

あとは、自立をしていない状態、つまり何かに依存しているも不自由な状態といえる。別の記事で専業主婦は自由を自ら放棄していると述べたように、経済的自立なくして精神的自由なしという考えだ。介護してもらわないと生きていけないといった、誰かの介助を必要とするのは身体的自立がなく、不自由な状態といえるかもしれない。しかし、それを不自由と捉えるかは自分次第である。

内的要因の不自由はこんな感じだ。心の在り方、現実の捉え方が不自由な状態かを決めるのかもしれない。

(断っておくが、自由を追い求める自分こそ不自由だと薄々気づいている)

 

消極的な自由は不自由な状態

過去の記事「自由研究~自由からの逃走~」で述べたように消極的な自由を求める姿勢も不自由な状態の仲間だと思う。その問題がなかったら何をするか、もう一度考え直し積極的な自由を求めて欲しいところだ。

 

不自由の認知

自由な状態かどうかは他を経験して初めてわかる。井の中の蛙大海を知らず、の蛙はそれしか知らないためある種の自由があるのかもしれない。コロナウィルスがはやりリモートワークなどでオンライン上でのコミュニケーションをとることが増え、一度は不自由に思ったはずだ。残念な事実だが不自由を認知・実感しないことが不自由でない状態なのかもしれない。

井の中の蛙は大海を知らないかもしれないが、我々はグローバル化・デジタル化により情報を認知しやすく自分と誰かをくらべやすい。しかも、Instagramなら相手の経済力や努力や加工などが分からないので自分と比べて憧れると大変なことになる。そのため、今の時代の人々は貪欲になりやすく満足しにくいのかもしれない。

Twitterは文字数制限があり配慮のある言葉遣いがしにくい印象が自分にはある。文字でのコミュニケーションは正直何が一番重要でどれくらい重要なのか明確に相手に伝わりにくいし、相手のバックグラウンドも分からないのに、感情的な言葉がけをする人がいる。文字でのコミュニケーションも不自由というか情報に乏しいのだから、信用するのは気をつけるべきだ。自分にとってこのツールは不自由というか不便だ。

(不便と不自由、便利と自由は考える余地がありそうだ)

 

哲学的な問い「何かを求めることが不自由なのか」

結局のところ、「何かを求めることが不自由なのか」という結論がでた。

しかし、自分がそうは思わないし、自分で論じといてなんだがそう思いたくもない。

「求めよ、さらば与えられん」やハリーポッターの「ホグワーツでは助けを求める者にそれが与えられる。」「さきのセリフを修正するとしよう。ホグワーツでは、助けはふさわしい者に与えられる」という言葉を思い出す。求めなければ手に入れられないし、満足感という感情に自分は価値を置いているため、多少人生が苦くなろうと自分は不自由の認知を甘んじて受け入れる。

一方で、自由に捕らわれている自分がいるし自由を求めたら不自由になるとはどこか矛盾している。

自由な状態=不自由でない状態=何かに囚われない状態=・・・≒何も求めない状態

とやはりなってしまうが、とりあえず今この瞬間の現状に満足しながらスモールステップで目標に向かっていくことが大切だと思う。

 

結論

結局、自由が何かは結論づけないことにする。しかし、自由を求めるなら身体的自立がある若いときにやっておくしかない。時間的自由はないのだから。

 

最後に詩を二つ紹介する

一つ目はペンパルに紹介してもらった詩で、自分の好きな詩だ

富なんてくだらない

愛なんてばかばかしくて笑ってしまう

名誉なんて望んだところで

朝になったら消えてしまう夢でしかない

もしもわたしが祈るとしたら

この唇からもれる祈りはひとつだけ

「この心をときはなち自由をください」

わたしが焦がれるのは

なにものにもとらわれない魂と

生と死も乗りこえてゆける勇気だけ

 

引用元:著者アーシュラ・クローバー・ル=グウィン「どこからも彼方にある国」より エミリー・ブロンテの詩

 

 

二つ目の詩

 

神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

   出典[http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_niebuhr.htm]

 

大学の期末レポートは終わってないが、今回はよい考察のできた記事だと思う。それが読者に伝わり、何かの役に立てば幸いだ。

 

 

2020/08/15追記

補足として、井の中の蛙大海を知らずには続きがある。

井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る

 

2020/08/19追記

 余談だが、アーシュラ・クローバー・ル=グウィンは「ゲド戦記」の作者である

 

 

思考源

特定できない