自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自己中心性があるImagination

文章や会話から場面を想像する癖

 人の話を聞いているときの、自分の癖がわかった。自分の自己中心性の片鱗が見えた。

 まず、場面の想像である。話題のイメージが曖昧なら(自分が知らなければ)人が話しているときに質問したりしない。話題のイメージがシンプルだったり、明確なイメージが形成できる場合は、より細部のイメージ形成のために質問してしまう。このような癖が私にはある。

 

 例えば、「川にアユがいるか調査したことがある」という話をされたら、

1.川にかかっている橋を想像する

2.人が橋から川を見下ろす場面を想像する

3.川の水面に光が反射して見えない可能性が高い

4.なんかレンズみたいなものを持っているだろう 

 ここで質問、「偏光板は持っていたのか?」と聞く。説明してきた相手は、「川にアユがいるか調査したことがある」という説明と偏光板の関連性を見いだすのに時間がかかっていた。話の主題や、注目ポイントがずれているからだろう。(偏光板は高校の物理で出てくる、説明は付録で)

 さらに別の人が、「魚影でアユの特徴がわかるのか」と質問する。確かに、偏光板を使って仮に魚が見えたところでアユの魚影がわからなければアユかわからず、調査にならない。この話から、アユをどう見るかというイメージをしている点で私と似ている考え方をする人だと思った。

 私は、アユの調査の話をした人の話の途中、つまり主題の前に質問してしまった可能性があり、アユの調査の経験を話したかったのかよくわからない。だから、主題の前に自分のイメージを構成するにあたって質問するのはあまりよくない。私のイメージ形成には役立っても、話したい相手の気持ちには寄り添っていないからだ。

 

 ところで、他の人はどうやって人の話を聞くのだろうか。人の話しから自分の頭の中にイメージを組み立てるのではないのだろうか。

 

 これまで、自分の育ってきた環境やそこでの経験を踏まえて自分の癖を考えてみたい。話から場面をイメージするのは、本などから身についた。

 

 まず、絵本は場面をイメージする必要がない。

 次に、挿絵程度の本は挿絵を補助にイメージが必要になる。

 文章だけの本なら、これまでの想像力をもとにイメージが必要である。

 朗読は、読み手の抑揚や言い方を補助にイメージが必要である。

 

 このように、本を読むときのように人の話の場面をイメージしてから、話の登場人物たちを動かす。ラジオもそうですね。自分の話しもこのように場面設定から話す。

 このような想像を恐らく家族もやっている。家族に私は友だちの名前を話に登場させないせいので友だちがいないと思われている。なぜなら、話の登場人物たちは「友だち」だったり、「先生」だったりするからだ。ちなみに、先生といっても一日に3人ぐらいの先生と話したりするので、先生といえど別の先生であったりすることもあるため、話の聞き手は登場人物である先生のイメージが確立し難い。話の登場人物たちを登場人物の人数か別の名詞で言わないと、いないことにされるのである。なので、うちの家族では「最近、○○って子がよく話に登場するね」(○○には人の名前が入る)となる。これは、頭の中で場面設定をしていないと難しいのではなかろうか。

 

想像力の補助

 本といった文章は、文章からイメージする能力が必要である。一方で、アニメーション、ライトノベル、漫画、映画、絵画、挿絵、イラストといったものはイメージする能力を補助もするが、固定観念を植え付ける機能も兼ね備える。イメージの補助を使い続けるのは、逆に言えばイメージする能力を伸ばすのを妨げる。

 

 まず、絵本は場面をイメージする必要がない。

 次に、挿絵程度の本は挿絵を補助にイメージが必要になる。

 文章だけの本なら、これまでの想像力をもとにイメージが必要である。

 朗読は、読み手の抑揚や言い方を補助にイメージが必要である。

 漫画は、イメージそのもだ。(人によっては二次創作に発展する)

 漫画や本を原作とした実写版は原作のイメージとかけ離れてしまうと危険である。

 

 

 イメージをする余地の程度を比べるとこのようになる。

 

 イメージの余地(文字)   本<挿絵の本<絵本<漫画<アニメ

 イメージの余地(音声)   台本<朗読<演劇<映画

 

 特に、後者、アニメーション、ライトノベル、漫画、映画、絵画、挿絵、イラストといったものが、世の中にあふれている。「本を一冊読んだことがありません」と他の学生がいる前で先生に相談している学生も知っているが、漫画や映画といった人のイメージの補助がついてるものばかり味わっている人の想像力とはいったいどの程度のものなのだろうか。イメージの補助は、本や人の話といった文字情報しかない場合のイメージ補助にもなり得るため、それなりに必要である。しかしながら、イメージを常に補助されていては、自分のイメージ能力が育たない。

 

 私は、人に場面を想像できるように話す癖がある。恐らく、中学時代にライトノベルの1話分だけ創作するのにはまっていたのがきっかけだろう。ライトノベルの難しさは、場面設定や超能力といった迫力や移動、緊迫感をいかにくどさを感じさせずに伝えるかという表現力が問われるところだ。そう、1話だけしか作らないので、やるのはいつも場面設定、登場人物のプロフィールづくりであった。

 私は、場面を想像できるように話す癖があり、人の話を場面を想像しながら聞く。それは、アニメや漫画、テレビ、自分が見てきたものの表象を蓄積したからこそ、知らない場面でも再構築してイメージするからできることである。

 しかしながら、この文章から場面を想像できる癖か何だか知らないが、アニメーション、ライトノベル、漫画、映画、絵画、挿絵、イラストを味わうばかりで、アウトプットを目標をもってしなければ、文章から場面を想像する能力はそれなりにしか育たないように思う。

 俳句は景色や経験から、鮮やかに人にものごとを伝える。音楽だって、情景を思い浮かべるような工夫がべートンヴェンあたりから始まったはずだ。教会の音楽や絵画、彫刻も聖書のイメージからできあがったものだ。

 文芸や音楽、芸術、発明といったクリエイティビティを必要とするものに想像力は、表現する際に欠かせないのではなかろうか。神話なんて想像力の塊だ。想像力は、実用であっても、文化であっても欠かせないものだとしたら、イメージ補助があり、かつ、イメージを再構築する機会がなくなればなくなるほど、想像力が乏しくなるため、人類にとっての損失は計り知れない。

 

 加えて、想像を表現する機会がなくイメージの補助ばかりでは、文章や会話などから場面を想像できる能力が低下し、他者に自分のイメージを固定観念として占有にされかねないと、私は警鐘を鳴らしたい。

 

 

想像力のなさは比喩や例等で説明できなくなる

 話を戻すと、人の話の聞き方が場面の想像から始まるというのが普通だったとしても、その場面想像に伴う場面の詳しさやその場面のどこに焦点を当てるのか人によって違うので、想像ができたとしても会話の齟齬が生じる。

 ただ、人の話の聞き方場面の想像が伴っていないのは、想像力がないという意味で問題がある。どのようにか、以下が例である。

 

「キジを放鳥をしている地域もあるんだよ」という話をした。放鳥がわからないので説明をする。

 

「放鳥って、ホタルを、小学生が途中まで育てて川に戻したりするじゃん、それの鳥バージョンだよ」

 

想像してもらえなければ、この説明が伝わらないのである。さらに説明を加えるとこうなる。

 

「鮭だって、人間が育てて川に戻したりするじゃん。それと放鳥も一緒だよ」

 

この辺でわかってもらえたようだが、別の説明も用意していた。

 

「トキとか、雷鳥も放鳥っていうんじゃないかな」

 

 語彙のない人がさらに、想像力がないと、比喩や例が全く意味をなさない。国語辞典みたいにいったところでわからないのにも関わらずである。相手の想像力を推し量るのは難しい。想像力を推し量れたところで、注目するポイントが違えば話の関連性を見いだすのが難しい。

 視覚的な経験、イラスト、テレビといった、これまでのイメージの補助を用いた、イメージの再構築能力がない、低い、使ってもらわないと、このように語彙が貧しい人に意味を伝えるのが非常に難しいのである。

 比喩や例の理解、抽象化、具体化の能力は想像力が物を言う気がしてならない。だから、イメージの再構築能力の育成を妨げかねない、イメージの補助が手厚い漫画やアニメ、映画ばかり味わい、かつ、イメージを再構築する機会――表現する機会――、が乏しい人が増えるのは困るという意味で心配である。

 

効果的に伝えるためには...

 

 「効果的に伝えるためには場とタイミングが重要なんだよ」と場とタイミングをとても考慮した人に伝えらえて2年前ぐらいに言われたことだが覚えている。

 別の人からは、「言葉を正しく使いなさい、辞書を持ったら伝わるようになった子がいるよ」と教えてもらった。

 前者には、「効果的に場とタイミングが使えているかどうかっていうのは、効果が高いか低いか自分で評価する必要があってその基準が必要だよね」といったところ、自分の感覚が重要なんだといわれる。今は、伝えたい内容によって相応しいTPOがあるということで理解している。しかしながら、TPOを考えるほどどうしても伝えたいことってあるかと言われれば、あまり思い当たらないのでその時にならないとわからない。

 後者のアドバイスを受けて、辞書を持ち歩いて間違えていそうな言葉を調べてみたが、私が調べるような言葉はあまり間違えていない。本当に間違えているのは、自分の使っている言葉に疑いを持っていない言葉なのだろう。

 言葉を間違えたら伝わらない、確かにそうだ。

 言葉を間違えないように使おうと思えば思うほど、的確な言葉を選ぶ努力をする。相手が分からない場合、「いや、この言葉は絶対にあっていると自信があるぞ、わからないあなたの問題でしょ」みたいな感じである。

 私にだって意味を間違えていない自信のある言葉がある。例えば、そう「偏光板」だ。これで伝わらなかったら、もう知らない。癖で偏光板の説明をするが、伝わらない理由はこちらにはない。相手にとっては実用化された「偏光レンズ」だったとしても「偏光板」という言葉は間違えていない(自己中心性)。そして、言葉を正しく使えば伝わるなどとアドバイスしてきたのだから、尚更私は言葉を間違えていないのだから、わからないの自分(アドバイスした人)のせいでしょ、という態度になる(自己中心的)。

 言葉を間違えていない偏光板でよくわからなかった相手は、5分後に「偏光レンズ」のことを言っているのかと関連性を見いだした。

 場とタイミング、正しい言葉も重要だろう。しかしながら、それをクリアしている可能性があったとしても、相手の想像の範囲内の言葉で表現しかつ、ある程度注目の仕方が似ていないと、まあ話が一発で伝わらないわけだ。正しい言葉を使い、梱包とラッピングのように同ようなことを伝えても、馴染みがある言葉かそうではないかで伝わらない。横文字は使うなって、そういう意味かってね(笑)。

 効果的に伝えるために内容に相応しいTPOを選び、正しい言葉でかつ相手に馴染みのある言葉、イメージの共有、注目の対象がある程度一致できればコミュニケーションの不具合が生じないのかもしれない。(自己中心性からの脱却)

 いただいたアドバイスだけでは、効果的に伝えるのは困難なのでアドバイスをしてくる彼らも、努力した方がいいと思う。

 

 しかしながら、今回はアユの調査の話を偏光板の有無で止めてしまった。やはり、相手の話を本題に入る前に質問してしまうのはよくない。それと同時に、いわゆる落ちがあると期待するのもよくないだろう。

 やはり、コミュニケーションは難しい。

 

 

 

以上になります。

 

 今後の予定としては、「中世の海図の正確さが現代の教科書レベルであったのは、航海者や水先案内人が正確な海岸線を必要としたからではないか」というテーマでレポートを書いたのでで2月か3月頃に公開する予定です。

 ちなみに、このレポートのテーマのような発想は、アユの偏光板の発想と似たような場面設定を想像できなければ厳しいと思いますよ。だって、当時海図を使っていたのは、航海者や水先案内人だから、彼らが海岸線の正確さを必要とし、その理由は正確な海岸線がわからないと船がどうなるのかという想像が必要なわけですから。この想像力のアシストになったのはちなみに、映画アリス・イン・ワンダーランド2のアリスが海で海賊船から逃げている航海のシーンです。

 そんなこと言ったら、枝豆と大豆のレポートも同様に想像から始まるわけですが。

 

 こんなこと言っていると切りがないので、とにかく、最後まで読んでいいただきありがとうございました。失礼します。

 

紹介

林勇吾,三輪和久,2011,「コミュニケーション齟齬における他者視点の理解」,『Cognitive Studies』18(4),pp.569-584,(URL:

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcss/18/4/18_569/_pdf/-char/ja).

・鎌田晶子,2007,「透明性の錯覚:日本人における錯覚の正起と係留の効果」,『実験社会心理学研究』46(1),pp.78-89,(URL:

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjesp/46/1/46_1_78/_pdf/-char/ja

).

 

 

 

 

付録

・放流が出てこない人

「放流」という言葉が出てこない人の放鳥の説明はこれです。

「鮭だって、人間が育てて川に戻したりするじゃん。それと放鳥も一緒だよ」

「放鳥って、ホタルを、小学生が途中まで育てて川に戻したりするじゃん、それの鳥バージョンだよ」

 

・言葉を間違えるとどうなるか

グループワークで「双六」のゲームを作りたいということで、いいじゃんと思っていたら、まさかの、相手はサイコロのことを「双六」といっていたようでイメージ共有ができていなかった。双六のゲームはイメージできると思って投票前に完成像の質問しなくていいと思っていたら、投票後に双六ゲームをつくることに決まったあとにイメージと違うことがわかったである。言葉を間違えているせいで、イメージも違った。今後は、言葉を信用するのではなくイメージ像の共有をしてもらわねばならない。

私も、言葉の間違いに気をつけたい。

 

・偏光板

 偏光板とは、水面は反射して水の中が見えないので、水面の反射をどうにかして水の中が見えるようになるものです。

 偏光板は、商業的には、「偏光レンズ」で売っています。これを間違えると物理学の世界か、実用かで専門性に違いが出てくるので注意してくださいね。

 私の予測では、反射するものによって光の波長が違うならば、恐らく雪バージョンの偏光板もあると思います。ガラスもあるなら、覗き見用に偏光板を使えばいいんじゃないですか(笑)。

 だったら、海やプールのライフセーバーとか偏光レンズ義務化、さらに良いのは偏光板レンズつきのゴーグルとかつければ、溺れている人の命を守れるのではないかと思うが、統計を見てみないとわからない。

 

活版印刷やデジタル媒体によるイメージ補助

活版印刷やデジタル媒体の機能一つは、イメージの補助によるイメージの固定観念の提供と強化も含まれるでしょうね。

 

・神話という言葉を使った批判

文芸や音楽、芸術、発明といったクリエイティビティを必要とするものに想像力は、表現する際に欠かせないのではなかろうか。神話なんて想像力の塊だ。想像力は、実用であっても、文化であっても欠かせないものだとしたら、イメージ補助があり、かつ、イメージを再構築する機会がなくなればなくなるほど、想像力が乏しくなるため、人類にとっての損失は計り知れない。

そう考えると人々が信じている思い込み等を「神話」と比喩して批判をするのは、人々の想像にすぎないという意味で批判してると捉えていいだろう。