ある試験を受けている時に、動機は忘れたが自由について考えていた。具体的には、ハンナ・アーレントの『人間の条件』における自由についてだ。
自由とは、何者であるか暴露できる条件を満たしている場合をさす。
古代ギリシアでは、必然にとらわれていない自由という状態が条件で、その条件を満たしてはじめて公的領域の一員として認められ、行為や言論を表すことができ、何者かが暴露でき、暴露され、そして、見られ、永遠の存在になる可能性が開けた。
古代ギリシア人は、神に似た永遠の存在になることを目指した。そのためには、公的領域が欠かせず、そこに入る条件として、誰であるかに価値を置いていたから、自由を条件においた。その唯一無二である存在を永遠にするにあたり、完全なwhoが暴露されるのは、自由という、必然に囚われていない、何者であるが暴露できる状態だから条件においたのだ。
古代ギリシア人の目的は、神に似た永遠の存在になることであった。私や多くの現代人が自由になることが目的にある。そのための、金銭的自由だったり、ストレスマネジメント等、政治等を自由の条件にあげる。
だが、古代ギリシア人にとって、あくまで自由は永遠になる条件でしかない。近現代において、大衆はほぼ無目的で自由を求めて、賛美している節がある。無論、私にもある。また、近代革命あたりを振り返らないといけないが、そもそも何の目的で自由が理念となったのかを確認する必要がある。それと同時に、その目的を我々は批判しなくてはならない。でなければ、なんとなく「自由っていいよね」の域を越えられない。
何を目的におき、目的のためにどのように言論と行為を用いるか、目的と過程で何者かが暴露される。何者かを暴露し、永遠の存在になることを望んだのが古代ギリシア人である。
自由になることが目的かを批判し、自由が目的でないならば、何が目的で、それは何が条件なのか考えなければならない。価値観はみな違うのだから。