書き直す予定ですが、面白い視点なので記事としてアップしておきます。分かりにくいということが不可避の文章です。
2021年1月30日追記
一時、この記事を引っ込めましたがまとまりのある文章を見つけてきたのでもう少しわかりやすくなりました。いや、本当にめぐりあわせに感謝ですね。
三つの視点といえば
時間には、過去・現在・未来があります。いいですね、過去・現在・未来があります。
自分の心の中にも過去・現在・未来がある通り、人類にも過去・現在・未来があります。
何当たり前なことを言っているんだ、と思うかもしれませんが、本当にそうでしょうか。よく、主観・客観・俯瞰というのがありますが、何か抜け落ちています。時間が欠けているのです。
兎に角何が言いたいのかというと、一人一人が刹那的な利己主義に行き過ぎではないのか言う話です。
一人の人間の人生は人類の歴史から見ると非常に短く儚いです。寿命を時間に換算したらさらに短く感じるかもしれません。そして、人生短いのだからどうして他人のためになんか生きないといけないんだ、という利己主義、もしくは自己中心的になると思います。
反知性主義者たちにおいては時間が流れない。それは言い換えると、「いま、ここ、私」しかないということである。反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは、「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。彼らはそれにしか興味がない。
出典 内田樹,2020,「反知性主義者たちの肖像」,内田樹の研究室,2020年9月3日,(2021年1月30日取得,反知性主義者たちの肖像 - 内田樹の研究室 (tatsuru.com))
ですが、前から言っている通りそれでは歴史のフリーライダーでしかありません。申し訳ないですけど、社会にただ乗りしているだけだと、少子高齢化、格差や貧困、派遣法などによるフルタイムで働く非正規労働者、学歴主義(帰属主義)など様々な問題がでてきます。(なぜならいつも悪い奴がいるからである、失礼パスカルが登場してしまいました)
問題は解決していかないと問題として残ります。課題がいいですかね。課題は終わらさないと課題は溜まっていきます。いいでしょう、寿命が課題を終わらす期限としましょう。ですが、終わらなかったらその課題は社会に残されたままであり次の世代にどんどん継承されてくのですよ。残念ながら社会に期限はありません。一人の課題ではなく、社会の課題というのがあるのです。いわゆる公益というやつです。残念ながら、官僚や公務員たちは核心に迫る問題解決はしてくれません。そして、公共圏もほぼないので考えてもどうにもなりません。一人一人が、社会の過去・現在・未来という視点を持つことが重要だと思います。
どうせこんなこと言っても上の空の方がほとんどだと思いますので、引用で理解をはかどらせたいと思います。(見くびりすぎだよとと言って欲しいところですが)
国政におけるいまここでの政策の適否は今から50年後、100年後も日本という国が存続しており、国土が保全され、国民が安らぎのうちに暮らしているかどうかによって事後的にしか検証されない。株式会社であれば、新製品がどれくらい市場に好感されたか、展開した店舗がどれくらい集客したか、ターゲットの設定がどれくらい適切であったかは、当期の売り上げや株価によってダイレクトに評点が下される。けれども、残念ながら四半期で適否が決まるような政策は国政については存在しない。いま政府が行おうとしている重要政策の適否が判明するのは、その政策が重要であればあるほど遠い未来になる。場合によっては、私たちの死後かも知れない。「政治にマーケットはない」というのはそういう意味である。採択された政策が「失敗」したとわかったときに、国民は「CEOを馘首する」というソリューションが採れない(たいていの場合、失政の張本人はとうに引退するか、死んでいる)。そのとき失政の後始末をするのは国民国家の成員たちしかいない。誰にも責任を押しつけることができない。祖先が犯した政策判断の失敗の「尻ぬぐい」はその決定に参与しなかった自分たちがするしかない。そのような「負債」の引き受けを合理化する唯一の根拠が民主制である。
誤解している人が多いが、民主制は何か「よいこと」を効率的に適切に実現するための制度ではない。そうではなくて、「わるいこと」が起きた後に、国民たちが「この災厄を引き起こすような政策決定に自分は関与していない。だから、その責任を取る立場にもない」というようなことを言えないようにするための仕組みである。政策を決定したのは国民の総意であった。それゆえ国民はその成功の果実を享受する権利があり、同時にその失政の債務を支払う義務があるという考え方を基礎づけるための擬制が民主制である。
このためには、死者もまだ生まれてこない者もフルメンバーとして含む、何百年もの寿命を持つ「国民」という想像の共同体を仮定せざるを得ない。その国民なるものが統治の主体であるという「物語」に国民が総体として信用を供与するという手続きを践まざるを得ない。
出典 内田樹,2020,「反知性主義者たちの肖像」,内田樹の研究室,2020年9月3日,(2021年1月30日取得,反知性主義者たちの肖像 - 内田樹の研究室 (tatsuru.com))
しかし、今の為政者たちは、政策の適否は長い時間的スパンの中で検証されるものであって、自分たちが今犯した失政の「負債」は自分たちが死んだ後、まだ生まれていない何代もの世代に引き継がれることになるというふうには考えていない。
出典 同上
どうでしょうか、さすがに以前よりは理解がはかどったかと思います。学校教育の英語教育が改善されないのは、少子高齢化対策がおざなりなのは、大学教育の在り方がかわらないのは、新卒一括採用で年功序列の会社経営の変容がここまでゆっくりなのは、時間軸がなく共同体意識がないからではないでしょうか。お金がないから焦燥感にかられてしまうのはわかりますが、もっと考えてくださいよ。(少々、感情的な文章表現になってしまいましたが、まあいいでしょう)
このことは、お金があり余裕のある人や権力のある人が特に時間というのを忘れないでいただきたいところです。(イギリスならノブレスオブリージュというのがあるんですけどね。日本はそうはいかないので。)
私は、とりあえず考えることを続けて公益に貢献したいと思います。
意味不明な方は過去の記事の「自由研究 ~君たちはどう生きるか~」を参照してください。
公益についての分かりやすく詳しい説明は以下参照
「僕が死んだあと、私有地も道場も“面倒な”コモンにする」 内田樹が門徒に苦労させるワケ | 文春オンライン (bunshun.jp)
注意:内田樹に影響されて記事を書いているのではなく、たまたま同じことを考えてて自分よりわかりやすく説明しているから引用したり、リンクを張り付けています。そこんところ、変なプライドがあるので勘違いしないください。
視点を自由自在に操れる
自由は啓蒙と共に、そういった主観から客観へ、客観から俯瞰へ、俯瞰から時間(歴史的な視点)へと、一次元から二次元へ、二次元から三次元へ、三次元から四次元へという視点の転換ができ、自分の意志で視点の転換できるようになることが自由の意味の一つかもしれませんね。
(時間の存在の方が一次元かもしれまんせんが。)
地図的に考えると
自分の眼で見る、他人の眼で見る、人工衛星もしくは監視カメラ、神の視点で見る、さらにそこに時間軸を加えてみる。といった、地図をズームする感じです。
「Don't worry about tomorrow.」の前提は
継続的にこのブログを読んできたからならお分かりの通り、過去の記事と言っていることが今回の記事の内容は真逆です。「今この瞬間を生きる」というのは集中するという面では確かに重要でした。しかし、何に集中するのかにもよります。自分の儚い命を噛みしめるために集中するのか、何か目的・計画があるから実行している今に集中するのかです。大多数の人に自分の人生に集中されると、前述の通り少々困りますので刹那的な利己主義に走る前にちょっと周りと時間を意識して欲しいです。時間という意識を持たずに刹那的に生きるのは動物と大差ない気がします。彼らは将来に備えたりしませんので。だから、将来の社会のことも考えたうえで集中して今この瞬間を生きてくださいね。
今回は、以上になります。読んでいただきありがとうございました。
今回の記事の付録は史観と金について
史観について
よく歴史は勝者の都合のようになっていると考えたり、人類の歴史はどんどん改善されてよくなっているという歴史の見方があります。そういうのを「○○史観」というそうです。で、それについて考えるのは「哲学史観」というものだそうです。
歴史的世界の構造やその発展についての一つの体系的な見方。観念論的な見方のものと唯物論的な見方のものとに大別することができる。史観。
金について
天国に金は持っていけないというが、それこそ死ぬ前に公益のために使い道を意思表示してくれよといった感じだよね。「天国に金は持っていけないけど、お金を通してあなたの意志を残せます」ってね。(笑)んー、「天国にお金は持っていけないですが、あなたのお金であなたの意志を残しませんか?」いい感じのキャッチコピーになりそう。そしてさらに投資で増やす。
思考源
「思想は種で、土壌は心で、社会を環境と見立てたとき民主主義を植え付けられた民がそれを育てることはできないだろう」という話だった気がする
レポートの草案「刹那的な利己主義に生きる共同体意識のない日本人」