「相手の気持ちを想像してみよう」「相手の立場になって考えよう」という声掛けを鵜呑みにできたことがない。というのも、自分が相手と違い過ぎる、別の言い方をすれば、相手と自分には個別性があることがわかっているため、想像したとしても相手の気持ち通りの想像はできないとわかっているからだ。
この後、戸田山和久の『哲学入門』から他者の心を理解する能力について引用するが、引用内容が議題に挙げている声掛けにいて私がどう思っているかと全く違うので、いかに人の想像に頼ったり、曖昧な表現が弊害をもたらすのか知って欲しい。(どうでもいけど、こういう言葉ってどういう場面で使われるかと言えば、道徳を訴えかける場面で使われるんですよね。道徳を訴えかける場面というのはご自身のご経験に委ねます。)
この記事の引用は、全て以下の文献からです。
まず、「他者の心の理解」って何だ。これは別に、①心の中で何が起きているかを手に取るように体験する(読心術とかテレパシーとか)ということではない。②駅の改札の直前で立ち止まって、鞄の中を探っているおじさんを見たとしよう。ああ、切符かICカードを見つけたくて(欲求)、鞄の中にあると思って(信念)そういう行動をとっているのだな、とわれわれは理解する。しかも、たいていの場合、その推測は当たる。しばらく鞄の中を探して見つからず、ポケットもすべて探したのに出てこない。こういうとき、われわれは、あのおじさんは駅員のいる窓口に歩いて行くだろうと推測する。そうするとたいてい当たる。
②このようにわれわれは、他人の行動をその人の信念と欲求から説明し、逆に信念と欲求から行動を予測するということをつねひごろ行っている。これが「他者の心の理解」の正体だ。これができないと生きにくいよ。社会性の動物であるヒトの場合、おそらくこの能力は適応上の利点をもっているだろう。
pp.277-278.
※番号は筆者記入
ちょっと、整理したい。
まず、私は「相手の気持ちを想像してみよう」と言われたら相手の心の中を想像しろと言われている気がした。しかし、それは次の文章を読む限り違う。『「他者の心の理解」って何だ。これは別に、①心の中で何が起きているかを手に取るように体験する(読心術とかテレパシーとか)ということではない。』
私の考えは、①であったがそれは違う。「他者の心の理解」は②である。
つまり、『②このようにわれわれは、他人の行動をその人の信念と欲求から説明し、逆に信念と欲求から行動を予測するということをつねひごろ行っている。これが「他者の心の理解」の正体だ。』
いやまあ、確かに、小学生と保育園で言われる「相手の気持ちを想像してみよう」は、「相手の気持ちを想像してみよう、①お友だち悲しんでいるよ」である。がしかし、戸田山和久の考えを採用して勝手に解釈すると、「相手の気持ちを想像してみよう、そういうことすると②お友だちが悲しむって想像できなかった?」である。
では、このように「相手の気持ちを想像してみよう」に付け足される言葉を思い返してみよう。ちなみに、これから説明するがこのパターンは全部言っていることが違うことに注意したい。
①「相手の気持ちを想像してみよう、①お友だち悲しんでるよ」
②「相手の気持ちを想像してみよう、②そういうことするとお友だちが悲しむって想像できなかった?」
③「相手の気持ちを想像してみよう、③自分だったらどう思う?」
では、続きを引用しよう。
次に、「心を理解する能力についての通常の説明」って何か。この能力の説明としては、③シュミュレーション理論と②理論理論(theory-theory)と呼ばれる二つの考え方がある。
③シュミュレーション理論によれば、他人の心を理解するとき、われわれは自分自身の意思決定システムをシュミュレーターとして使う。自分自身の切符が見つからないときは、われわれは、駅員に相談して駅から出してもらおうという欲求と、駅員は窓口にいるだろうという信念とをこのシステムに入力して、窓口に歩ていくという行動を出力させる。こんな風にふだんは自分の行動の産出に使っている意思決定システムを行動産出のところだけ切り離してオフラインで使う。・・・・・・。こうして、③他人の意思決定を自分の意思決定システムを使ってシュミュレートすることで他人の心を理解しているのではないか。これがシュミュレーション理論だ。
p.281.
※下線は原文通り
※番号は筆者記入
③「相手の気持ちを想像してみよう、③自分だったらどう思う?」という流れは、戸田山和久の「③他人の意思決定を自分の意思決定システムを使ってシュミュレートすることで他人の心を理解しているのではないか。これがシュミュレーション理論だ。」に分類できる。
がしかし、これについても、自分と同じように相手が動くというのが高確率で実現しない限り難しい。人によって違うから、自分の意思決定システムを使ってシュミュレートすると間違える可能性がある。
では、次に行こう。
一方、②理論理論によれば、私たちは他人の心を理解し行動を推測するための理論のようなものをもっている。心理学では、この理論は「心の理論」と呼ばれている。心の理論は、こんな信念とこんな欲求をもっている人はたいていこんなことをするもんだ、という一般的命題の集まりからできている。②私たちは、他人に信念と欲求を帰属させ、それを心の理論の一般的命題に代入し、その人が何をするかを推測する。あるいは逆にそうした一般命題を利用して、なぜ他人がしかじかの行為をしたのかを推測する。
p.282.
※強調は原文通り
※番号は筆者記入
二度目のあてはめになるが、②「相手の気持ちを想像してみよう、そういうことする②お友だちが悲しむって想像できなかった?」は、戸田山和久の引用を使えば「②私たちは、他人に信念と欲求を帰属させ、それを心の理論の一般的命題に代入し、その人が何をするかを推測する。あるいは逆にそうした一般命題を利用して、なぜ他人がしかじかの行為をしたのかを推測する。」と説明できる。
これについても、推測が必ずしも合っているわけではないし、あくまで推測に留まることに注意したい。
今回の記事の内容は、「相手の気持ちを想像してみよう」という声掛けは結局何を要請しているのか、なのでさらにここまで引用して終わりにしよう。
さて、こうした心の理論を使って他人の心を理解するのは何のためか。つまり、こういう推測ができることの利点はどこにあるのだろうか。駅の中のおじさんの振舞を遠くから冷たく観察して、彼の心の中を推測したり、行動を予測して、当たったらニヤニヤよろこぶ、ってのは、あまり利点にならない。われわれが他人の心を理解するのは、おそらく、他人に対処するための自分自身のストラテジーを選び出すためだろう。つまり、あの人は、いまこんなことを思っているはずだから、こんなことを言ったら怒るだろう。だったら、言わないでおこう、といった具合だ。
p.282.
※強調は原文通り
※番号は筆者記入
というわけで、「相手の気持ちを想像してみよう」という声掛けは結局何を要請しているのか、戸田山和久の例えに乗っかれば、よく鏡で自分の体形を気にしている彼女に、「太った?」って言うと機嫌を悪くするだろから言わないでおこう、といった具合だ。
世の中の男性諸君、妻や彼女が「なんで私の気持ちわかってくれないの」と言ったときに、その時の彼女の気持ちに焦点をあて実況するのではなくて、これまでの行動から女性が怒りそうなものをリストアップしておき、恐らくこれかなと推測するということになります。推測が間違っている可能性は多分にありますが、日々、「この人はこれで不機嫌になるとか」、「この人はこれで喜ぶ」とかを高い精度で検知していく必要がある。
「相手の気持ちを想像してみよう」という声掛けが結局何を要請しているかと言えば、何をすると、何があると相手はどのような感情になるのかを推測し、相手に対処するための自分自身のストラテジーを選びだそうぜ、といえる。
詰まるところ、そのためには相手の反応を推測できるほどに情報を収集できないと、相手に対処するための自分自身のストラテジーを選び出すこともできないわけだから、日々のコミュニケーションがモノを言う。
ちなみに、相手が自覚していて伝えてくれればラッキーな方だ。相手が自覚していない系の生理前は不機嫌とか、低気圧で不機嫌とか、お腹空いていると不機嫌、褒めると喜ぶ(人による)、繰り返して笑う、といったものは言葉では表現されない。つまり、コミュニケーションツールが文面ばかりになっている現代において、言語化されない相手の反応の情報収集はまず困難である。そして、嘘を見分けるときや、相手の本来の感情を読み切る方法として、目が笑っていないとか、体のこわばりとかで推測の精度を高めていくが、SNSやリモートワーク等ではそれも難しい。したがって、相手が自覚していない系の個別性のある反応を我々が収集するのが難しいため、相手に対処するための自分自身のストラテジー選ぶのも難しくなってきているのが現状といえよう。
相手の情報収集ができてないんだから、相手の気持ちを想像するなんて個別性が強いもの、普通が通用しないことは精度が低いんですよ。
もし、ジョハリが現代にいたら、何だ、現代は自分は知らない、他人が知っている窓というのがだいぶ小さくなった、と言わざるを得ないだろう。(笑)
以上になります。
単に「相手の気持ちを想像してみよう」とかいう道徳心に訴えかけかける声掛けについては、本当に文字通り真に受けて、今相手は悲しんでいるとかいう実況しかできない奴もいるので、戸田山和久並みの丁寧な説明を希望します。そういうとこ、相手の気持ちの想像が足りてませんよ。(笑)
最後まで読んでいただきありがとうございました。
最近、不動産の勉強をしていて、地理とかも頭に入れたいので、歯磨きをしているときは世界地図を眺めています。
世界地図を見ていて、インドの一部はもともと島で、プレートの移動により大陸とくっついたという話を思い出して、インドとスリランカをぼうっと見ていました。なんでスリランカはインドにはならなかったのだろうかと思って見ていたら、なんで国が違うのに色が一緒なんだ、見にくいなと思ったんですよ。
そういえば、原作は東野圭吾の福山雅治と柴咲コウがメインで出演していた「ガリレオ」というドラマが映画化した、「容疑者Xの献身」で、湯川教授と同級生の石神が数学の定理で同じ色が隣り合はない四色定理を話をしていたなと思い調べてみました。
実際、地図は四色定理をもとに色塗りがなされているのか検索したところ、なんとビンゴでしたよ!
よかったら、Wikipediaでも読んでください。
今回は、かなり、いい付録だと自負しています。(笑)
今度、世界地図を眺めて思いついた仮定があっていたという複数の話をつなげて記事として特集しましょう!