自由研究

「自由が何か知らなきゃ手に入らないので自由研究してます。」              自由研究という目的のために話題を取り上げているため記事単体で読んでもよくわからない時がある 記事によって後日追記したり添削しているときがある

自由自在と手つかずの自然

 筆者が自由・自在に対して価値を置くのを促進したのは、生物の進化であった。

 生物の進化は、世代間を経た遺伝的変化を意味する。現代の生物の多様性を見る上で、環境や他の生物との関係があっていたものが生き残ってきたんだな、観察に値すると意味で貴く思うことができるようになった。環境や他の生物との関係は絶えず変化するだろうが、どんな風に進化したり、どの生物が生き残るのか考えると非常に面白い。

 何も手を加えないでいれば生物はどう変化するのだろうか、ありのままが見れるのではないかと、わくわくする。何も手が加えられていない人間などそもそもいないのだが、何も手が加えられていない人に対しても怖いもの見たさという関心はある。(これをカルチベートというなら納得がいく)

 

 自由・自在について考えていたら自然保護の思想にその片鱗がありそうだと思った。ウィルダネス(wilderness)である。

訳語注記

♦ウィルダネス[wilderness]

訳語としては「荒野」や「野生(地)」などが検討されたが、以下の理由で、ウィルダネスとした。wildernessとは、語源的には「野生の鹿」のこと。現代英語では、「野生動物のみが生息する無住の未耕作地」が基本的意味。アメリカ合衆国においては、とくにヨーロッパ人入植以前の「未開」の状態を残している原野や森林など、いわば手つかずの自然を意味することが多い。現在、こうした未開地の一部は国立公園などとして保護されているので、ウィルダネスは保護区域の同義語となっている。

 

エマ・マリス,2021,『「自然」という幻想―多自然ガーデニングによる新しい自然保護―』,草思社文庫,p.348.

 

 ただ、手つかずの自然は幻想に過ぎないと著者は指摘する。指摘しているだけでは具体性に欠けるので、代わりに大学のレポートを読んでいただこう。

 

大学のレポート

 本レポートでは、最初に課題図書『「自然」という幻想――多自然ガーデニングによる新しい自然保護』の概要を述べる。次に、ヒトの活動による人為的環境と生物の関係について述べる。また、国際貿易と農地の集約化も合わせて考える。さらに、在来種のために外来種を駆除すべきかどうかを実在するある緑地でできるのではいかという考えを示す。最後に、イギリスの学者の方が外来種の選択的導入を考えていたことを取り上げ、エマ・マリスの考えが新しいものではないことを述べる。

 

 はじめに、課題図書の概要を述べる。

 本書は、自然の新しい見方として「自然に手つかずのものはない」という見方を示し、自然保護の在り方を再考し、新たな自然保護の在り方を指し示すという内容構成になっている。新しい味方と対比される思想として「定常的に、手つかずの野生(ウィルダネス)があらゆる景域の理想」とする考えがある。これに対して、著者はそもそも過去のどの時点を手つかずの自然するのか問いを立て、批判する。この問いを極限まで考えると、手つかずの自然といえるような基準となる過去の時点は1万3000年前であるという「更新世再野生化」という考え方を皮切りに、自然保護の在り方として本物の復活ではなく失われた種の「代理種」への検討へと移る。代理種は、手つかずのウィルダネスに基づけば外来種ともいえるため、外来種の利点を述べ、外来種の在来種への影響を踏まえ、絶対に外来種は駆除すべき存在と言えるのか再考を促しつつ、外来種の有効活用を促す。最後に、庭や工業地帯を使ったあらたな自然保護の形を紹介し、自然保護の七つの目標及びコストとの兼ね合いについて触れている。

 

 次に、課題図書を読んで考察したことを述べる。

 ヒトが特に土地という環境にどのような影響を与えているか、ヒトが作り出した環境と生物の関係はいかようなものかというのを取り上げたい。

 ヒトの活動が環境に影響を与えていた例は、野焼きだけでなく、農場、放牧、稲作があげられると考える。まず、農場については「ヨーロッパの大半の地においては、伝統的な方式で管理される農地は、自然保護の場なのだ。その地に見られる生物種は、すべて農地の生物種と見なされている。……。イギリス王立鳥類保護協会は『農業活動に依存する農地の野鳥』を保護するプログラムを持っている[1]」といった事例も、ヒトの活動が環境に影響を与え生物が暮らす環境を構築しているという一例だ。日本の稲作でも同様に、人間の活動である水田とゲンジボタルヘイケボタルとの関係[2]が知られている。また、水田にはホタル以外にも数種のトンボとその幼虫も生息している。恐らく、それ以外の生物も生息していると考えられるため、ヒトの活動によってもたらされている水田とそこに暮らす生物の関係に着目して、生物多様性のために調査を実施する必要がある。

 また、農地の集約化の度が過ぎると、ヒトの活動によってもたらされていた環境に住んでいた生物の住家を奪いかねないことは、国際貿易の議論の場において必要な知識と考える。なぜなら、現在、世界国際貿易において、リカードの比較生産費説が条約等を結ぶにあたって今でも活かされているからだ。その内容は、他国と比較して生産効率が高いものを生産し、他国より生産効率が低いものは他国に任せるというものだ。これを推し進めた場合、例えば環太平洋ではオーストラリアとニュージーランドにしか、ヒトの活動で生まれる放牧地がないといったことになりかねないのだ。そんなことをすれば、当然、日本の本州の放牧地に住んでいた生物は絶滅の可能性がでてくる。そのため、水田や放牧地といった人の活動に由来するものは、地域単位で一定の規模を水田や農地等に活用し続ける必要があるといえよう。

 

 次に、『新しい生態系』のフィールドとしてのある緑地が当てはまり、調査する意義について述べる。

 自然保護の議論の中に、在来種のために外来種を駆除するべきか否かという議論の中で、非在来種が支配する森を新しい生態系としてみるという考え方がある。

 ある緑地が新しい生態系に当てはまるか調査する意義があると考える。というのも、本書に出てくる「農業地帯と市街地の内部に存在するが農業にも都市機能としても利用されていない土地を調べた。このような土地が「新しい」生態系に相当する例になると考えたのである。結局のところ、人間が支配する都市と農地に近接しながら使用されていない土地こそ、非在来種の導入や局所的な絶滅などの変化が起きている可能性が非常に大きいだろうからだ。[3]」というのに当てはまるからだ。規模は小さいとはいえ、谷戸にある、ある緑地の周りは宅地囲まれてはいるものの、農地と隣接しているからである。ある緑地が外来種に支配されている生態系かそうでないかは調査してみないとわからない。ただ、仮に外来種に支配されている生態系ならば、そこでの在来種との関係を調査することは、自然保護において在来種のために外来種を駆除すべきか、という議論を一歩先に進めることができると考えた。

 

 最後に、イギリスの学者の外来種の選択的導入を1960年代時点で考えていたことについて、述べる。

 訳者あとがきを読んだところ、「手つかずの自然への信仰を支える生態学的平衡理論として知られる『遷移理論』は、20世紀前半アメリカの生態学から生まれた。[4]」との文言がある。これについてアメリカの学者に対して少々疑問がある。イギリスの学者で、『動物の生態学』の著者として知られる、チャールズ・S・エルトンの『侵略の生態学』において自然保護についてこう述べている。曰く、「“自然保護”とは、そもそも世界中において、すべての大陸とすべての島で、いっそうはっきりいうなら可能な限りすべての地域において、生態学的な多様性を最大限持った景観を、保ちかつ増大させることである。したがって、土着の生物種がそれぞれ占めるべき場を確保している場合には、群衆をいっそう豊かで興味深く、かつまた安定するように改造するため、外来の種を慎重に検討しながら選択的に導入することも、あながち否定するわけではない。外来種の多くのものは、当然の成り行きとしていずれは、到着し、ある生態的地位をしめるものだからである。[5]」と述べている。つまり、エマ・マリスの外来種を有効活用するという考え方は、1970年以前にイギリスの学者によって既に考えられており、新しい視点とは言い難いのが実情である。もしからしたら、ただ単にアメリカの生態学者たちがイギリスの文献を真剣に読んでいなかったり、間に受けていなかっただけかもしれない。

 すでに頭の中にある「手つかずの自然」こそ自然である、という考えはどこから来ているのか、なぜ自分はそのような考えを持っているのか、どこから来ているのかわかったら他国、他者はどのような考えを持っているのかと比較する姿勢が人の考えを自分に取り込むうえで必要と言えるだろう。

 

以上

 

[1] エマ・マリス,2021,『「自然」という幻――多自然ガーデニングによる新しい自然保護』(訳岸由二,小宮繁),草思社文庫,草思社,pp.281-282.

[2] 大場信義,2011,ホタルにとって水田とその付随施設はどのような環境か?,国立歴史民俗博物館研究報告,162集,pp.11-31.

[3]  エマ・マリス,2021,『「自然」という幻――多自然ガーデニングによる新しい自然保護』(訳岸由二,小宮繁),草思社文庫,草思社,pp.241-242.

[4] エマ・マリス,2021,『「自然」という幻――多自然ガーデニングによる新しい自然保護』(訳岸由二,小宮繁),草思社文庫,草思社,p.351.

[5] チャールズ・S・エルトン,1983(1971),『侵略の生態学』(訳川那部浩哉,大沢秀行,安部琢哉),思索社pp.206-207. 

 

レポートは以上。

自由自在と手つかずの自然

 人の手が加わっていない状態を自由だとして、自在になる人、自然に興味があったとしよう。しかしながら、人の手が加わっていない人、自然などないとは言い難いが、あるとは言えないわけで、自在が怖いもの見たさだとしても、見たいからといって見れるものではないなさそうだ。

 また、規範を自分の思想や習慣から切り離すのはかなり難しく、自在になる道は長い。

 

 

以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

付録

 3月3日の桃の節句に、桜と梅と桃のうち、桃の特徴を捉えるために友だちと桃を探していました。あれは桃かと言って人の家の庭の木を見ていましたが、「違う、これはボケ」だと教えてもらって、どうしても桃と言えそうな木が見つかりませんでした。花屋は、夕方の時点で既に桃ノ木を売るのをやめていましたし、見つかりませんでした。

 4月に入って桃の本を読んでいて、何てアホなことをしていたのだろうと自分に呆れてしましました。

 というのも、桃の節句は桃の節句であっても、私たちが探した3月3日は、新暦の3月3日に桃の花を探していることを意識していなかったのです、旧暦に沿っているであろう桃の節句に桃の花を探さなければ桃の花は見つからないのに、何馬鹿なことをしているのだろうと呆れたのです。

 ちなみに、桃を探すなら桜と同時ぐらいに探すと見つかりそうです。確信はありませんが、多分これ桃かなと思っている木があります。つまり、新暦の3月3日のために桃の花を売るのは、温室が必要なため地球温暖化に一役買っているというわけです。節句や祭り等は、旧暦に則るのが色々と良いではないでしょうか。

 皆様、立春と同様、カレンダーの節句等を見て花等を探すなら、旧暦に換算して考えましょう。

 

 

自分の能力の限界が、人や道具等のポテンシャルを引き出す限界

 以前、友だちとAIでの言語学習の仕方について話した。言語学習をAIとするにあたり、言語学習アプリのレベルに対して自分の言語レベルが低いならば、CHatGTPに「ネイティブの5歳児のレベルで返答して」とオーダーして言語学習に取り組めばいいのではないか、という話をした。

 友だちには、「頭いいね」と言ってもらえた。

 結論から申すと、AIという道具の使い手である人間の限界がAIの限界なのではなかろうか。

 

 この話題をもっと普遍化してみよう。

 現代人はインターネットブラウザを用いて、日々様々なことを検索している。

 これは、人に対して質問する行為にも似ている。

 インターネットブラウザで何を検索するか決めるにあたって、問いや関連用語として言語化し検索する。人に対して質問する行為も何を聞くか決めるにあたって、問いや関連用語を言語化し問いを作り説明する。インターネットブラウザと人の違いは、その人の持っている情報がかぶっていることもあるが、プライベートや同じ経験を含めると違ってくる。

 インターネットブラウザで検索する行為と人に質問する行為は似ている。上手く質問したり、上手く自分が調べたいことをイメージできていないと検索結果や答えにずれが生じ、欲求が満たされないことがある。

 したがって、インターネットブラウザで検索する人、人に質問する人の答えを引き出す限界が、インターネットブラウザや説明ができる人の限界を決めることとなる、といえる。

 

 インターネットブラウザに限らず、データベースを持ち様々なデータが充実していたとしてもそれの使い手が優れていなけれデータは生きてこない。名器と言われる楽器があったとしても、優れた演奏技術がなければ名器を生かしきれない。何かしらに優れた人がいようと、それを引き出す能力がない人が指示する側に回ればその優れた能力は発揮されずらい。優れた人がいたとしても優れた記者がいなければ、その人の優れているところは立ち現れずらい。優れた教授がいようと、それ相応な質問ができなければ、教授の優れているところを垣間見るのは厳しい。

 

 したがって、当たり前の話であるが、自分の能力の限界が、人や道具等のポテンシャルを引き出す限界といえる。

 どんなにAIが発達しようが、AIを使う人間の限界がAIの限界となる。

 

 自分の能力の開発は、人や道具等のポテンシャルを引き出す限界をずらす。自力で考えなくて済むようになってきた情報社会の現代こそ、自分で仮定し問いをつくりインターネットや人から答えを引き出す訓練が必要なのではなかろうか。

愛の行為の位置づけが狭義である人

 愛するという行為は、自分自身のできることでしかできない、と言い切って問題ない。つまり、愛する対象に合わせて自分自身ができることをしていけば愛することができるといえよう。自身のできることが増えれば増えるほど、愛する行為のレパートリーも増えるということである。そのため、愛する対象の愛と認定している行為が特殊であっても、自身の愛する行為のレパートリーがあれば愛されているという感覚を与えることも可能になる。

 しかしながら、逆に言えば、愛される対象の愛と認定している行為が、レパートリーに欠けたり、特殊であったり、形式が決まっていたりするとすれ違ってしまったり、場合によっては拒否をし、最悪、客観的に見れば愛(親切に)されるよりも不利益を被ることになる。愛される対象の愛と認定している行為は、人によって違うので何とも言えないが、場合によっては本質が伴わない表面的な行為という形式があっていなければ、自分の目的のために合致し自分のために行われた適切な行為であっても、愛とはならないという人もいるのである。

 これは社会に広くある程度は人々に認められることだと思うが、行為を重視するのか、言葉を重視するのかである。満員電車の席の譲り合いを例にしよう。

 

 1.「どうぞ」とぶっきらぼうに席を譲ろうとする

 2.「よかったらどうぞ」と愛想よく席を譲ろうとする

 3.もはや誰も譲らない

 

 筆者の評価の順位は、2>1>3である。

例えぶっきらぼうに席を譲られたとしても、自分がゆずってもらえたことは嬉しい。これに対して、なんてぶっきらぼうな言い方なんだと言い方を責めるというのは、確かに気になりはしたとしても席を譲らなかった人よりは評価が上がりはしない。言い方は微妙だが、行為は評価できるというわけだ。

 ちなみに、家族曰く、3の席を譲らない人と、1と2の席を譲る人は同じ土俵にならず、1か2のどちらがいいかで判断するんだよと言われてしまった。

 読者の方々の、行為と言い方の比重はどれほどのものだろうか。

 電車に話をもどして、丁寧な言い方だけど愛(親切)するという行為はない人と、ちょっとフランクな気もするけど愛する行為をしてくれる人だ。愛の行為のやりとりであっても、関係性や内容にもよるだろうが、もしこれが、丁寧な言い方のみで愛(親切)を判断するということであれば、なんと表面的なのだろうか。丁寧な言い方がそもそも問題とならない状態、すなわち、丁寧な言動がなければ愛としないならば、他者等と言葉のやりとりが発生しないという状態である他者の無関心や孤独について考えてみると、マザー・テレサ「愛の反対は無関心」という言葉も腑に落ちる。

 おまけで、行為と言い方や言うことの比重がどれほどかをジャッチする質問を述べると、自分にとっては必要だけれども苦手で交替して欲しいことを交替せず、ただ「愛しているよ」と囁く恋人と、自分にとっては必要だけれども苦手なことを交替していくれる人で愛を囁かない恋人ならどっちがいいだろうか。

 

 愛という行為の位置づけが、狭ければ狭いほど、また愛してくれる関係性を限定的にすればするほど、特定の誰かでなければ愛の針孔を通せないということになる。そのような人を可哀そうな人だとしか言いようがない、と筆者は思ってしまった。

 まとめると、愛することは、自分ができることを相手の目的等を踏まえてやればいいので簡単だ。しかし、愛されている感覚を相手に抱かせるのは人によっては至難の業だろう。

 

何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。・・・・・・ある物に、より多くの知識がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。・・・・・・すべての果実は苺と同時期に実ると思い込んでいる者は葡萄について何一つ知らない。

パラケルスス

 

エーリッヒ・フロム,『愛するということ』,エピグラフより。

 

 さて、愛するということについて考えているが、スムーズに思考が深まり少々驚いている。自由は、全くスムーズに進まないからだ。その違いを考えてみたことが3点ある。

 1点目は、自由に比べ愛は暴走する可能性が低い。愛するという行為は相手のためになるということが前提であるため、愛は拒めば鎮静化する可能性がある。しかしながら、自由を何が沈静化してくれるのか思い当たらないため、暴走する可能性が高い。

 2点目は、ちょっと関係ないが、裏と表、始まりと終わり、前と後ろ、等々、片方があれば片方もある言葉があるが、自由がはじまったらどのような終わりがあるのだろうと思ってしまった。自由と対になる言葉とはどのようなものなのだろうか。自由が生まれた瞬間に生まれたものは、責任だろうがなんだかしっくりこない。他に、自由が生まれた瞬間に何が対の言葉として生まれたのだろうかと思った。私は、愛の対が無関心であることに納得しているため、自由の対が何なのか気になる。

 3点目は、近代化以降、出版等で文字状の共通概念が形成されていった。そのうちのひとつとして、愛は金であるといった、愛の形は人によって違うという感覚がなくなる方向性は

 

 

以上になります。

 

 丁寧な口調は行為を正当に受け取ってもらえる可能性をあげると気づいたので、徐々に丁寧な口調にしなければと意識する属性を拡大していければと思います。行為を正当に受け取るかどうかの要素は、それだけではないでしょうが、とりあえず丁寧な口調から攻略していきたいと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

付録1

 なんと、ついに私は、質問することは権利であり、「質問ありますか?」と聞かれて臆せず質問ができるようになりました。

 これまで、大学の講義で、「何か質問はありますか?」という質疑応答の言葉を鵜呑みにして、質問を義務的意識でつくっていた私は、公共的な質問か、2度目の質問か、重要な質問か、等々を意識していることが自信につながり、内容に関しては臆せず質問できるようになりました。以前は、質問を何個もしていいわいけないし、他の人に譲る気持ちもあり恐る恐る周りを見て質問していましたが、概ね皆さん譲る以前に質問がないので譲る必要性がないことに気づきました。

 わからないことがあって質問せずに失敗したり、勘違いしたりするぐらいなら質問しようというものである。そんな無暗に質問すると、馬鹿にされたり迷惑だという見解もあるでしょうが馬鹿にされたり、迷惑だと思われたとしても自分や質問を思いつきさえしないものが失敗や、勘違いを未然に防ぐという意味で、質問することは良いことと考える。よく質問を促されるときに言われる、「自分がわからないことは、みんなもわかっていない可能性があるから、質問はみんなのためになるから、何かわからないことはない?」というものだ。

 ただし、特に良い質問を求める場で、場が冷めるような質問や以前聞いた質問を繰り返さない、一緒にいる人がその質問と応答を聞く意義は0ではないという見込みのある質問が望ましいということは忘れてはならない。

 

 

付録2

この前、絶対に東大に入れない人は一部存在するという発言をしたらなんとか否定しようとした人がいたので、確率について考えてみました。

まず、18歳以上で、100歳まで生きるとして、82回受験できる。東大の入学枠は○○で、受験者数は○○なので、82回の挑戦権を考えると、計算した場合、確実に100%ではないので、絶対に東大に入れない人は一部存在するといえよう。

(くれぐれも、こんなことを人に言うのやめましょう)

 

付録3

私は「社会の最小単位は家族だ」という認識を採用している。これを考えてみると、身寄りのない親戚もいない独身の個人というのは、どうなるのであろうか。こう考えてみると夫婦や兄弟というのは、社会の最小単位である家族を維持する可能性を持つが、独身というのは前述の認識を採用すると社会の最小単位ですらない、最悪社会性を持たない状態と表現できそうだ。では、質問を最後したいと思う。社会の最小単位は個人といえるだろうか。また、社会性を持たない孤独な人を定義することは可能だろうか。

 

ポルトラノ型海図における海岸線の考察-海岸線の機能に着目して-

 もう大学の担当教員がレポートを評価し終わってインターネットで検索しなさそうということで、レポートを公開したいと思います。ネットで検索されたところで、投稿日が締め切り以降だから大した問題もないんですけどね。(笑)とはいっても、びびって下書きに戻してしいましたが、過去の大学の課題の掲載日を見たら締め切りの三日後とかに掲載しているレポートもあったので、いっかなと思って掲載します。ご迷惑をおかけしました。

 

 さて、このレポートは、珍しくお題設定があり結構きつかったですが、地図とにらみ合いながら書き上げました。話題の範囲が広いという意味で読書の教養の足しになればいいなと思います。

 

目次

 

ポルトラノ型海図における海岸線の考察-海岸線の機能に着目して-

はじめに

 

 本レポートでは、もっとも興味深く感じた空間認識として、ポルトラーノ図の現実の実態に近しいという表所的特徴を取りあげる。

 はじめに、ポルトラーノ図の表象を取りあげる理由を述べる。本題に入る前にまず、地図という名称や地図の見方の癖によって無意識に地図の見方が偏っていることを指摘する。次に、自分自身の地図の見方に偏りがあることを踏まえて、ポルトラーノ図を使う航海者の視点に立って、ポルトラーノ図の正確さが必要となった背景を航海者の視点に立って考察する。最後に、ポルトラノ型海図の正確さに注目し、近世の現実の実態に基づいた世界地図は、中世の情報と海図作成の技術に支えられたて描かれたものと表現できることについて論じる。

 

ポルトラーノ図の表象を取りあげる理由

 ポルトラーノ図の興味深く感じた点は、二点ある。

 ポルトラーノ図は、現実の実態に近しい図あるため、ポルトラーノ図の製作者は、どのようにして地の形状を正確に捉えたのか気になったからである。ポルトラーノ図を正確と表現する理由は、現代の教科書等に載っている世界地図と概ね似ているからだ。

 その他に、興味深く感じた点は、ポルトラーノ図は海図でありながら、私は地図として認識し地表に注目するという認識の偏りに気づいたからだ。

 

第1章 認識の偏りを誘発するもの 

 ポルトラーノ図の表象について論じる前に、まず、様々な地図、海図を見た時に、認識の偏りを誘発するものとして、地図という名称の偏りを取りあげる。次に、習慣や教育による地図の見方の偏りを取りあげる。

 はじめに、「地図」や「海図」といった名称が、認識の偏りを誘発する可能性があると問題提起する。

カンティーノ世界地図は、正式名称が「インディアスの諸地方で近年発見された島々への航海のための海図」でありながら、「地図」と表現される。日本語話者が、同じポルトラーノ図を見せられても名称が地図、もしくは海図かによって、同じポルトラーノ図を注目する際に陸地に偏るか、海に偏るか、認識の偏りを誘発すると考える。

 次に、無意識に地図の見方が偏っていることをとりあげる。

 地図を日常的に使う人は、地図の認識が陸地に偏っているといった、地図の見方の偏りがある可能性がある。例えば、地球の面積の7割を海が占めているにもかかわらず、地球の面積の3割を占めているに過ぎない陸地に注目するのは、認識が陸地に偏っている、と表現できると考える。

 また、国境線がない世界地図であっても、国境線と世界地図を一緒に見る習慣を教育等で身に着いていたら、世界地図から日本を探すといった、馴染みのある土地に目がいくというがちという見方の偏りだといえよう。この地図の見方の偏りは、地図の見方に癖があるとも表現できよう。

 世界地図を、地図と呼称するのは、現代人もしくは日本語話者の地に認識を向かせ、認識の偏りを誘発させる可能性がある。また、習慣や教育で身に着いた地図の見方の癖は、認識が偏っているとも表現できる。

 以上の、世界地図を見るときに「地図」という名称と、習慣と教育によって身に着いた地図の見方の癖によって、無意識に認識が偏りよっている可能性の反省を踏まえて、考察をはじめる。

 

第2章 ポルトラノ型海図が正確である必要性

 ポルトラーノ図の現実の実態に近しいという意味で正確という表象的特徴に注目し、ポルトラーノ図(以下、ポルトラノ型海図)が正確である必要性について、使い手である、航海者や水先案内人の視点に立って考察する。

 ポルトラノ型海図には、使い手である航海者や水先案内人にとって重要だったことが、海図の特徴にでると考える。ポルトラノ型海図の特徴は、船程線網、海岸線の形状、海岸線沿いの地名、海底の情報のユニークな表現記号、内陸部の空白があげられる¹。

 そのうち、「海岸線の形状は、特に地中海・黒海についてはかなり正確で、現代の地図と比較してもそれほど遜色がない。²」とある。この海岸線とは、海と陸の境界線、を意味する。恐らく、航海者や水先案内人が彼らにとって重要な海と陸の境界線である海岸線を紙面上に引くことによって、陸地の形状も同時に明らかなと考える。

 したがって、正確に海岸線を引く技術によって、正確に世界地図を描くことが可能になったと考察する。

 

第2-1節 海岸線等を正確に描く必要性

 下記、夛田(1996)が述べたポルトラノ型海図の特徴から、なぜ海岸線を正確に描く必要があったのか考察する。

 

 海底の情報をユニークな表現記号で伝えている。すなわち、沿岸海域のところどこには岩礁の存在を示す点描がみられ、また、同じく沿岸に散りばめられた赤い小片は浅瀬の存在を指示している。……これらの記号は、港と目と鼻の先の海域での海難事故を警告する意図で描かれたのであろう。事実13世紀初めのフランスには、船の損失の原因が航海者にあると認められた際には、その者を死刑に処すという法律があり、航海者には海難回避に関するかなりの専門的な知識が要求されていたのである。

引用:夛田祐子,1996,「京都大学文学部博物館所蔵ポルトラノ型地中海図に関する一考察」,『歴史地理学』178,p.3.

 

 ユニークな表現記号は海難事故を警告する意図があった(夛田1996)、という考察を踏まえて航海者にとって重要なことを考察する。

 航海者にとって重要なことは、船で人や貨物を安全に運ぶことであったと考える。航海者は、人や貨物を運ぶと同時に海難というリスクに晒される。船舶が海難に遭遇すると、人命および貨物や船体等の著しい経済損失が生じるため、航海者は海難を防止する必要があったと考える。

 それと同時に、13世紀初めにフランスの船の損失が航海者であった場合は死刑という法律(夛田,1996)も相まって、海難を防止する海岸線等の必要性が強まったと推測する。

 したがって、海難防止がきっかけとなり、海岸線等を正確に描く必要性があったと考察する。

 

第2-2節 海難防止と海岸線の役割

 ここで船が航海中に起こる事故を意味する海難を取りあげる。

 海難の中には、「衝突、座礁、浸水、転覆、火災その他各種のものが見られる³」ことがわかっている。その中でも座礁海難は、世界的に見ても、他の衝突、火災、転覆、浸水や機関故障等と比べかなり発生率が高く、海難件数の首位を占めている⁴。20世紀の海難事故を13世紀の海難事故にあてはめるのは限界があるものの、沿岸海域に岩礁の存在を示す点描や浅瀬の存在を指示していることから、13世紀においても主要な海難事故は座礁だったと示唆される。

 海難事故である座礁を防ぐ第一段階は、陸と海の境目である海岸線の把握であるとすれば、座礁の防止にあたって海図に海岸線を正確に描く必要性がある。

 つまり、航海者にとって海難防止は責務であるため、海難である座礁防止の第一段階として海岸線を正確に把握しておく必要があるから、ポルトラノ型海図には、正確な海岸線を描かれていると推測する。また、ポルトラノ型海図は、座礁を防止するとともに、陸地の正確な把握にも役立ったと考察する。

 

第3章 ポルトラノ型海図の技術と世界地図

 本レポートでは、ポルトラノ型海図に備わっているべき現実の地形に即した正確なものという特徴と技術が、後の世界地図づくりの基礎になったと推測した。

 実際、以下のように、世界地図の一部として採用されたことがわかっている。

中世末期の世界地図には、一部にポルトラーノが採用されている。カタロニア地図(パリ国立図書館所蔵)はその例で、ポルトラーノによる地中海を中心とする詳細な部分に対し、東方はマルコ・ポーロなどの東方旅行をした商人や宣教師の伝えた知識を用いて粗略に描かれている。

 

引用:海野一隆,高橋正,フランク・B・ブギニー(編),1974,「地図の歴史」『ブリタニカ国際大百科事典 12』, ティービーエス・ブリタニカ,pp.728-733.

 

 以上のように、世界地図の一部として採用されているのみならず、世界地図の部分によって正確さがまばらということがわかった。

 さらに、ポルトラノ型海図の技術は、投影法について考慮されていないため、世界地図の作成では不向きではあるものの、プトレオマイオスの世界地図が復活した近世においてもポルトラノ型海図の技術は活用されている。

 

ニュルンベブルクに現存する最古の地球儀でマルチン・ベハイムの地球儀(一四九二年)もこのような性格をもつものであり、地中海を中心とする地域や、アラビア、インド付近はプトレオマイオスによっているが、アフリカの西岸やヨーロッパの大西洋岸はポルトラーノによりかなり正確な海岸線を描き、アジアの東端にはマルコ・ポーロによって伝えらえたカタイ(華北)、マンジ(華南)、チパング(日本)を描いている。

 

引用:海野一隆,高橋正,フランク・B・ブギニー(編),1974,「地図の歴史」『ブリタニカ国際大百科事典 12』, ティービーエス・ブリタニカ,p.731.

 

 上記のようにポルトラノ型海図の技術は、アフリカの西岸及び大西洋岸で正確な海岸線を描くために使われており、世界地図づくりの基礎になったことがわかる。加えて、注目すべきは、ポルトラノ型海図は、大量に生産されたと考えられている⁵にも関わらず、近世最古の地球儀における地中海はプトレオマイオスによっていることだ。

 

おわりに

 本レポートでは、ポルトラノ型海図に注目することで、まず、世界地図を見るときに「地図」という名称と、習慣と教育によって身に着いた地図の見方の癖によって、無意識に認識が偏りよっている可能性を反省した。

 その上で、ポルトラノ型海図の表象である、現代の世界地図に似ているという意味の正確さに注目し、その理由が航海者にとって海難防止のために海岸線の把握が重要だったからだと考察した。

 中世のポルトラノ型海図の情報と技術は、近世の現実の実態に基づいた世界地図を作る上で部分的に採用されていることもわかった。

 よって、ポルトラノ型海図の正確さに注目することで、中世において海難防止のために海岸線の把握等長年にわたり蓄積した海岸線や地名等の情報と海図作成の技術に支えられて、近世の世界地図は描かれたもの、といえよう。

 

 

脚注

¹夛田祐子,1996,「京都大学文学部博物館所蔵ポルトラノ型地中海図に関する一考察」,『歴史地理学』178,p.1.

²夛田祐子,1996,「京都大学文学部博物館所蔵ポルトラノ型地中海図に関する一考察」,『歴史地理学』178,p.2.

³岡本泰久,1977, 「座礁海難と船体強度」,『日本造船学会誌』578号,p.7.

⁴同上.

⁵夛田祐子,1996,「京都大学文学部博物館所蔵ポルトラノ型地中海図に関する一考察」,『歴史地理学』178,p.2.

 

参考文献一覧

・夛田祐子,1996,「京都大学文学部博物館所蔵ポルトラノ型地中海図に関する一考察」,『歴史地理学』178,pp.1-13.

・岡本泰久,1977, 「座礁海難と船体強度」,『日本造船学会誌』578号,pp.7-15.

・若林幹夫,1995,『地図の想像力』,講談社.

・海野一隆,高橋正,フランク・B・ブギニー(編),1974,「地図の歴史」『ブリタニカ国際大百科事典 12』, ティービーエス・ブリタニカ,pp.728-733.

 

以上

 

 

 最後まで読んでいただきありがとうございました。読者の皆様の教養の足しになれば幸いです。

 

 おまけ、地図はオランダ語が語源です。江戸へのペリーによる黒船来航を可能にしたのは海図の普及が一要因です。

 あと、教科書に載っている世界地図という表現は、学生のご愛嬌ということにしてください。そうはいかないと思う人もいるでしょう。ごもっともだと思います。引用は簡単でも、表象の提示もしくは国境や地名のある地図を私は的確に表現することは私はできませんでした。

 

紹介

虎ノ門で企画展をやっているようなので、興味が湧いた人はいってみてはいかがですか。プレゼントもあるみたいですよ。

企画展『日本の「かたち」を描く ─地図・海図編纂にみる領土・海洋認識の変遷─』 | 領土・主権展示館

 

レポートを書いているときに見つけられたら良かったのにと思った論文

仙石新,2018,「海図って何?―その役割と未来―」,『地図』,Vol.56,No.3,pp.19-26.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjca/56/3/56_3_19/_pdf/-char/en

愛の個別性

 最近、解けたと思った疑問があります。その疑問は、「愛」ってなんだというものです。愛の意味ではなくて、愛の輪郭ですよ。

 頭に残っているのは、ジブリ千と千尋の神隠し千尋がハクににが団子を食べさせるシーンの「愛じゃよ、愛」というセリフが、何だよそれって思わせる。他にも、ハリーポッターのボルデモートからハリーを救った母リリーの魔法を「愛の力じゃ」と表現するダンブルドア先生のセリフに対しても何だよそれって思っていた。

 映画のセリフから愛って何なんだよ、とずっと疑問に思っていた。

 というわけで、愛ってなんだよっていうね。メディアは、愛より青春をとりあげてばかりいるせいか、青春に比べて愛を捉えるのが難しい。

 で、愛の輪郭について言えることは、愛っぽい行為って人によって認識が違うのではなかろうか、というものです。

 まず、愛の共通認識について考えみよう。母親の子への無償の愛は共通認識としての愛であろうが、それ以外はどうなのか。昔は、宗教である程度統一されていたかもしれない。だが、現代日本では愛の共通認識が存在するのだろうか。なんなら青春の共通認識より共有されてなかったりして。

 もし確かな愛についての共通認識があるとは言い難いのならば、個々人の愛の認識(位置づけ)が個々人で異なるため、愛と思って行為をしたところで、受け取る側からしたら”そのような行為”を愛という行為として位置づけていないため、愛の行為がなされたと認識してもらえないのではなかろうか。(これを一致させていくのがコミュニケーションなんだろう。)

 愛の行為の位置づけが違えば、場合によっては、あなたにとってこんなことが「愛」なんですか、とか。自分にとってはこんなことでも「愛」なんですよ、という不思議な現象が発生するはずだ。お金が愛、時間が愛、手助けが愛、自力でできるように見守ってもらうことが愛、傾聴が愛、性的な交際が愛、DVでも愛、愛があるなら家事して当然とか、愛の行為と位置づけられている行為は人によってバラバラだ。

 愛の位置づけが、愛する側とそれを受け取る側で違えば、誰かを愛していても伝わっていなかったり、誰かに愛されていても気づいていなかったりするのではななかろうか。いわゆる、すれ違い。神は平等に人を愛していたとしても、人が平等に人を愛すとは限らないため、人は人を必ず愛してくれるから全部の行為が愛とか思うのはちょっと違うと思う。

 愛を受け取る側は、愛の範囲を正常な範囲で広げ、愛する側は、よくない表現をすれば「こんなレベルを愛として受け取るのか」というところに愛を位置づけると、かなり愛が身近になると思う。

 自分にとってはちっぽけな行為であっても、他者にとっては欲しかったものだったりする。他人にとってはちっぽけかもしれない行為かもしれないが、自分にとってはすごく大切な行為だったりする。自分に余裕がありすぎて人によってはおせっかいかもしれないが行為は、人によっては必要なものだったかもしれない。

 「愛されたいは、愛ではない」という映画のセリフがある。だが、まあ、愛することは難しいと考えるのが普通だ。無償の愛なんて母子と神にしかないものだとかね。愛の位置づけは人それぞれ違うという前提を踏まえるて無償の愛について考え見よう。無償の愛とは見返りを求めないという意味もあるだろうが、相手が求めることは自分が無償で差し出せるほど自分にとっては容易な行為だったり、頑張ってでも無償ですべき行為という自己犠牲的な場合もある。無償で差し出せるほど自分にとっては容易な行為と捉えて、フロムの『愛するということ』を紐解こう考えてみよう。

与えることは、自分のもっとも高度な表現なのである。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の力、富、権力を実感する。この生命力と権力の高まりに、私は喜びをおぼえる。私は、自分が生命力にあふれ、惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びをおぼえる。与えることはもらうよりも喜ばしい。それははぎとられるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。

エーリッヒ・フロム,2010(1991),『愛するということ 新訳版』(訳鈴木晶),紀伊国屋書店,p.44.

 他者が求めて評価することをしてやる、できるようになることも大切だろう。だが、自分の容易にできることを求めている人のところで発揮すれば、受け手が愛と捉えるかは別として、愛していることにはなるのではないだろうか。

 別にできないことを頑張ってやれっていうわけではなくて、余裕のあるときに気が向いたときだけでもいいから自分ができることを求めている人にやってあげることが愛の循環につながるのではと思う。自分のできること(自分の力、富、権力、生命力)でしか人を愛すことはできない、ってね。例えば、お金がないので、金で貢がれることが愛と思う人を愛することはできないっていうのをドラマっぽく言えば、「僕じゃ、君を幸せにすることはできないよ」になるんじゃないかと私は思います。

 

 はい、次。

 愛の曖昧さって、その位置づけの個別性によるものではなかろうか。

 愛の等価交換は、お金ではないのだから困難である。例えば、結婚式で、メロンを嫌いな人が自分のメロンを、メロンを好きな人にあげたところで、失うものもなければ逆に食べ物を残す人というレッテルを張られずに済む。メロンを好きな人がメロンをもらえたら嬉しい。価値観の違いが、無償の行為を可能にする。誰かにとっては大したことがなくても、誰かにとっては嬉しいのである。逆に、誰かにとっては、大したことであっても、誰かにとってはありふれたことだったり、場合によっては求めていないことなのである。愛の拒否にもそれ相応の痛みが伴うが。

 愛の渡し方も、ものを手荒に渡されてたら受け取れる人もいるが受け取れない場合もあるし、勘違いする場合もある。言葉に気をつける必要性は、そういった面もあるのかもしれない。あやふやだとわからなかったりとかね。私は、「せっかく良いこと言っているのに、全然伝わってないよ」、「言い方」とかよく言われるので比喩は大切。

 

 自分にとってはどのようなことが愛で、他者にとってはどのようなことが愛なのか、それは容易に与えることが可能なのか、可能ならば必要な分だけ与えればいい。困難ならば少々考えよう。勘違いは避けたい。

まとめると、

 愛はその曖昧さ故に、我々、愛に疎い者たちを遠ざける。されど、その曖昧さ故に容易である余地を与え、無自覚な愛も可能にする。一方で、その曖昧さは愛されていたことに無自覚だったと気づく余地を残す。その曖昧さの判断にコミュニケーションを通じた意思疎通が伴えば、愛に一歩近づけるのではなかろうか。愛に疎い者たちよ。

となる。

 

 

愛の個別性について、

 

 愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらあわれている。その要素とは、配慮、責任、尊敬、知である。

エーリッヒ・フロム,2010(1991),『愛するということ 新訳版』(訳鈴木晶),紀伊国屋書店,p.48.

 

誰に配慮するのか。誰に対して、誰がどのように応答するのか。誰が、誰のどのようなポイントに尊敬の眼差しを向けるのか。誰が、誰の情報を知っているのか、その機会はあるのかプライバシーの詮索はどこまでにしておくべきか。個々人の、遺伝子、生まれ育った環境、影響を受けた友人や時代、個々人を取り巻く様々な環境は同一ではないため、人々は同一ではない。何を愛と感じるかも、何を愛とするかも個々人で異なる。配慮、責任、尊敬、知以上に愛の共通の要素を見いだすのは、少なくともエーリッヒ・フロムは困難であった。

何を愛とするかは、人それぞれ違うことを理解し、愛は○○という単純化を辞め、自分と誰々の関係性の上にあるこの行為は愛といえそうだ、特定の人と自分の関係性と行為などを踏まえて何が愛かをっぽいか、位置づけるかが愛に近づく術のひとつと私は思う。

 

以上、ちょっと自己満っぽいけど、我々愛に疎いものたちに必要な記事だと思うので掲載します。最後まで、お付き合いいただきありがとうございました。わかったつもりになって記事を書いていたらひどすぎる脈絡になってしまったので適宜編集します。

ちなみに、この話、私の女性の友人たちにしたところ、結構この話が通じましたよ。愛について恥ずかしがらずに対話をしてみると、実は簡単にわかっちゃってたのかもしれないですね。(笑)

 

 

思考源(自分のため、読者のために)

・映画「ハリーポッター」、「千と千尋の神隠し」他、愛を強調するセリフのある映画

・エーリッヒ・フロム『愛するということ』

・これまで覚えている範囲で尊重や配慮が際立だった利他的な気遣いを私にしてくれた人々とその行為、とりわけ大学以降に出会った人々とその行為

・漫画たち

・その他

 

 

付録

ジェネレーションXとポップカルチャーの関係から

共同性やコモンセンスの喪失に拍車をかけたひとつに、場を共にした経験の上に成り立つ思い出の喪失があるように思う。

 

同じオペラを一緒に見ていない。

金曜ロードショージブリを遠くでテレビで見ていたとしても一緒には見ていない。

昔、DVDで見たことがある。

 

いつ、どこで、誰と、どうやって、見たか。

意外にも、私たちはもはや、いつ、どこで、誰と、どうやって、どうだったか、と言わなくても済むような相手の存在がいなくなりつつあることに無自覚なのかもしれない。

自己中心性があるImagination

文章や会話から場面を想像する癖

 人の話を聞いているときの、自分の癖がわかった。自分の自己中心性の片鱗が見えた。

 まず、場面の想像である。話題のイメージが曖昧なら(自分が知らなければ)人が話しているときに質問したりしない。話題のイメージがシンプルだったり、明確なイメージが形成できる場合は、より細部のイメージ形成のために質問してしまう。このような癖が私にはある。

 

 例えば、「川にアユがいるか調査したことがある」という話をされたら、

1.川にかかっている橋を想像する

2.人が橋から川を見下ろす場面を想像する

3.川の水面に光が反射して見えない可能性が高い

4.なんかレンズみたいなものを持っているだろう 

 ここで質問、「偏光板は持っていたのか?」と聞く。説明してきた相手は、「川にアユがいるか調査したことがある」という説明と偏光板の関連性を見いだすのに時間がかかっていた。話の主題や、注目ポイントがずれているからだろう。(偏光板は高校の物理で出てくる、説明は付録で)

 さらに別の人が、「魚影でアユの特徴がわかるのか」と質問する。確かに、偏光板を使って仮に魚が見えたところでアユの魚影がわからなければアユかわからず、調査にならない。この話から、アユをどう見るかというイメージをしている点で私と似ている考え方をする人だと思った。

 私は、アユの調査の話をした人の話の途中、つまり主題の前に質問してしまった可能性があり、アユの調査の経験を話したかったのかよくわからない。だから、主題の前に自分のイメージを構成するにあたって質問するのはあまりよくない。私のイメージ形成には役立っても、話したい相手の気持ちには寄り添っていないからだ。

 

 ところで、他の人はどうやって人の話を聞くのだろうか。人の話しから自分の頭の中にイメージを組み立てるのではないのだろうか。

 

 これまで、自分の育ってきた環境やそこでの経験を踏まえて自分の癖を考えてみたい。話から場面をイメージするのは、本などから身についた。

 

 まず、絵本は場面をイメージする必要がない。

 次に、挿絵程度の本は挿絵を補助にイメージが必要になる。

 文章だけの本なら、これまでの想像力をもとにイメージが必要である。

 朗読は、読み手の抑揚や言い方を補助にイメージが必要である。

 

 このように、本を読むときのように人の話の場面をイメージしてから、話の登場人物たちを動かす。ラジオもそうですね。自分の話しもこのように場面設定から話す。

 このような想像を恐らく家族もやっている。家族に私は友だちの名前を話に登場させないせいので友だちがいないと思われている。なぜなら、話の登場人物たちは「友だち」だったり、「先生」だったりするからだ。ちなみに、先生といっても一日に3人ぐらいの先生と話したりするので、先生といえど別の先生であったりすることもあるため、話の聞き手は登場人物である先生のイメージが確立し難い。話の登場人物たちを登場人物の人数か別の名詞で言わないと、いないことにされるのである。なので、うちの家族では「最近、○○って子がよく話に登場するね」(○○には人の名前が入る)となる。これは、頭の中で場面設定をしていないと難しいのではなかろうか。

 

想像力の補助

 本といった文章は、文章からイメージする能力が必要である。一方で、アニメーション、ライトノベル、漫画、映画、絵画、挿絵、イラストといったものはイメージする能力を補助もするが、固定観念を植え付ける機能も兼ね備える。イメージの補助を使い続けるのは、逆に言えばイメージする能力を伸ばすのを妨げる。

 

 まず、絵本は場面をイメージする必要がない。

 次に、挿絵程度の本は挿絵を補助にイメージが必要になる。

 文章だけの本なら、これまでの想像力をもとにイメージが必要である。

 朗読は、読み手の抑揚や言い方を補助にイメージが必要である。

 漫画は、イメージそのもだ。(人によっては二次創作に発展する)

 漫画や本を原作とした実写版は原作のイメージとかけ離れてしまうと危険である。

 

 

 イメージをする余地の程度を比べるとこのようになる。

 

 イメージの余地(文字)   本<挿絵の本<絵本<漫画<アニメ

 イメージの余地(音声)   台本<朗読<演劇<映画

 

 特に、後者、アニメーション、ライトノベル、漫画、映画、絵画、挿絵、イラストといったものが、世の中にあふれている。「本を一冊読んだことがありません」と他の学生がいる前で先生に相談している学生も知っているが、漫画や映画といった人のイメージの補助がついてるものばかり味わっている人の想像力とはいったいどの程度のものなのだろうか。イメージの補助は、本や人の話といった文字情報しかない場合のイメージ補助にもなり得るため、それなりに必要である。しかしながら、イメージを常に補助されていては、自分のイメージ能力が育たない。

 

 私は、人に場面を想像できるように話す癖がある。恐らく、中学時代にライトノベルの1話分だけ創作するのにはまっていたのがきっかけだろう。ライトノベルの難しさは、場面設定や超能力といった迫力や移動、緊迫感をいかにくどさを感じさせずに伝えるかという表現力が問われるところだ。そう、1話だけしか作らないので、やるのはいつも場面設定、登場人物のプロフィールづくりであった。

 私は、場面を想像できるように話す癖があり、人の話を場面を想像しながら聞く。それは、アニメや漫画、テレビ、自分が見てきたものの表象を蓄積したからこそ、知らない場面でも再構築してイメージするからできることである。

 しかしながら、この文章から場面を想像できる癖か何だか知らないが、アニメーション、ライトノベル、漫画、映画、絵画、挿絵、イラストを味わうばかりで、アウトプットを目標をもってしなければ、文章から場面を想像する能力はそれなりにしか育たないように思う。

 俳句は景色や経験から、鮮やかに人にものごとを伝える。音楽だって、情景を思い浮かべるような工夫がべートンヴェンあたりから始まったはずだ。教会の音楽や絵画、彫刻も聖書のイメージからできあがったものだ。

 文芸や音楽、芸術、発明といったクリエイティビティを必要とするものに想像力は、表現する際に欠かせないのではなかろうか。神話なんて想像力の塊だ。想像力は、実用であっても、文化であっても欠かせないものだとしたら、イメージ補助があり、かつ、イメージを再構築する機会がなくなればなくなるほど、想像力が乏しくなるため、人類にとっての損失は計り知れない。

 

 加えて、想像を表現する機会がなくイメージの補助ばかりでは、文章や会話などから場面を想像できる能力が低下し、他者に自分のイメージを固定観念として占有にされかねないと、私は警鐘を鳴らしたい。

 

 

想像力のなさは比喩や例等で説明できなくなる

 話を戻すと、人の話の聞き方が場面の想像から始まるというのが普通だったとしても、その場面想像に伴う場面の詳しさやその場面のどこに焦点を当てるのか人によって違うので、想像ができたとしても会話の齟齬が生じる。

 ただ、人の話の聞き方場面の想像が伴っていないのは、想像力がないという意味で問題がある。どのようにか、以下が例である。

 

「キジを放鳥をしている地域もあるんだよ」という話をした。放鳥がわからないので説明をする。

 

「放鳥って、ホタルを、小学生が途中まで育てて川に戻したりするじゃん、それの鳥バージョンだよ」

 

想像してもらえなければ、この説明が伝わらないのである。さらに説明を加えるとこうなる。

 

「鮭だって、人間が育てて川に戻したりするじゃん。それと放鳥も一緒だよ」

 

この辺でわかってもらえたようだが、別の説明も用意していた。

 

「トキとか、雷鳥も放鳥っていうんじゃないかな」

 

 語彙のない人がさらに、想像力がないと、比喩や例が全く意味をなさない。国語辞典みたいにいったところでわからないのにも関わらずである。相手の想像力を推し量るのは難しい。想像力を推し量れたところで、注目するポイントが違えば話の関連性を見いだすのが難しい。

 視覚的な経験、イラスト、テレビといった、これまでのイメージの補助を用いた、イメージの再構築能力がない、低い、使ってもらわないと、このように語彙が貧しい人に意味を伝えるのが非常に難しいのである。

 比喩や例の理解、抽象化、具体化の能力は想像力が物を言う気がしてならない。だから、イメージの再構築能力の育成を妨げかねない、イメージの補助が手厚い漫画やアニメ、映画ばかり味わい、かつ、イメージを再構築する機会――表現する機会――、が乏しい人が増えるのは困るという意味で心配である。

 

効果的に伝えるためには...

 

 「効果的に伝えるためには場とタイミングが重要なんだよ」と場とタイミングをとても考慮した人に伝えらえて2年前ぐらいに言われたことだが覚えている。

 別の人からは、「言葉を正しく使いなさい、辞書を持ったら伝わるようになった子がいるよ」と教えてもらった。

 前者には、「効果的に場とタイミングが使えているかどうかっていうのは、効果が高いか低いか自分で評価する必要があってその基準が必要だよね」といったところ、自分の感覚が重要なんだといわれる。今は、伝えたい内容によって相応しいTPOがあるということで理解している。しかしながら、TPOを考えるほどどうしても伝えたいことってあるかと言われれば、あまり思い当たらないのでその時にならないとわからない。

 後者のアドバイスを受けて、辞書を持ち歩いて間違えていそうな言葉を調べてみたが、私が調べるような言葉はあまり間違えていない。本当に間違えているのは、自分の使っている言葉に疑いを持っていない言葉なのだろう。

 言葉を間違えたら伝わらない、確かにそうだ。

 言葉を間違えないように使おうと思えば思うほど、的確な言葉を選ぶ努力をする。相手が分からない場合、「いや、この言葉は絶対にあっていると自信があるぞ、わからないあなたの問題でしょ」みたいな感じである。

 私にだって意味を間違えていない自信のある言葉がある。例えば、そう「偏光板」だ。これで伝わらなかったら、もう知らない。癖で偏光板の説明をするが、伝わらない理由はこちらにはない。相手にとっては実用化された「偏光レンズ」だったとしても「偏光板」という言葉は間違えていない(自己中心性)。そして、言葉を正しく使えば伝わるなどとアドバイスしてきたのだから、尚更私は言葉を間違えていないのだから、わからないの自分(アドバイスした人)のせいでしょ、という態度になる(自己中心的)。

 言葉を間違えていない偏光板でよくわからなかった相手は、5分後に「偏光レンズ」のことを言っているのかと関連性を見いだした。

 場とタイミング、正しい言葉も重要だろう。しかしながら、それをクリアしている可能性があったとしても、相手の想像の範囲内の言葉で表現しかつ、ある程度注目の仕方が似ていないと、まあ話が一発で伝わらないわけだ。正しい言葉を使い、梱包とラッピングのように同ようなことを伝えても、馴染みがある言葉かそうではないかで伝わらない。横文字は使うなって、そういう意味かってね(笑)。

 効果的に伝えるために内容に相応しいTPOを選び、正しい言葉でかつ相手に馴染みのある言葉、イメージの共有、注目の対象がある程度一致できればコミュニケーションの不具合が生じないのかもしれない。(自己中心性からの脱却)

 いただいたアドバイスだけでは、効果的に伝えるのは困難なのでアドバイスをしてくる彼らも、努力した方がいいと思う。

 

 しかしながら、今回はアユの調査の話を偏光板の有無で止めてしまった。やはり、相手の話を本題に入る前に質問してしまうのはよくない。それと同時に、いわゆる落ちがあると期待するのもよくないだろう。

 やはり、コミュニケーションは難しい。

 

 

 

以上になります。

 

 今後の予定としては、「中世の海図の正確さが現代の教科書レベルであったのは、航海者や水先案内人が正確な海岸線を必要としたからではないか」というテーマでレポートを書いたのでで2月か3月頃に公開する予定です。

 ちなみに、このレポートのテーマのような発想は、アユの偏光板の発想と似たような場面設定を想像できなければ厳しいと思いますよ。だって、当時海図を使っていたのは、航海者や水先案内人だから、彼らが海岸線の正確さを必要とし、その理由は正確な海岸線がわからないと船がどうなるのかという想像が必要なわけですから。この想像力のアシストになったのはちなみに、映画アリス・イン・ワンダーランド2のアリスが海で海賊船から逃げている航海のシーンです。

 そんなこと言ったら、枝豆と大豆のレポートも同様に想像から始まるわけですが。

 

 こんなこと言っていると切りがないので、とにかく、最後まで読んでいいただきありがとうございました。失礼します。

 

紹介

林勇吾,三輪和久,2011,「コミュニケーション齟齬における他者視点の理解」,『Cognitive Studies』18(4),pp.569-584,(URL:

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcss/18/4/18_569/_pdf/-char/ja).

・鎌田晶子,2007,「透明性の錯覚:日本人における錯覚の正起と係留の効果」,『実験社会心理学研究』46(1),pp.78-89,(URL:

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjesp/46/1/46_1_78/_pdf/-char/ja

).

 

 

 

 

付録

・放流が出てこない人

「放流」という言葉が出てこない人の放鳥の説明はこれです。

「鮭だって、人間が育てて川に戻したりするじゃん。それと放鳥も一緒だよ」

「放鳥って、ホタルを、小学生が途中まで育てて川に戻したりするじゃん、それの鳥バージョンだよ」

 

・言葉を間違えるとどうなるか

グループワークで「双六」のゲームを作りたいということで、いいじゃんと思っていたら、まさかの、相手はサイコロのことを「双六」といっていたようでイメージ共有ができていなかった。双六のゲームはイメージできると思って投票前に完成像の質問しなくていいと思っていたら、投票後に双六ゲームをつくることに決まったあとにイメージと違うことがわかったである。言葉を間違えているせいで、イメージも違った。今後は、言葉を信用するのではなくイメージ像の共有をしてもらわねばならない。

私も、言葉の間違いに気をつけたい。

 

・偏光板

 偏光板とは、水面は反射して水の中が見えないので、水面の反射をどうにかして水の中が見えるようになるものです。

 偏光板は、商業的には、「偏光レンズ」で売っています。これを間違えると物理学の世界か、実用かで専門性に違いが出てくるので注意してくださいね。

 私の予測では、反射するものによって光の波長が違うならば、恐らく雪バージョンの偏光板もあると思います。ガラスもあるなら、覗き見用に偏光板を使えばいいんじゃないですか(笑)。

 だったら、海やプールのライフセーバーとか偏光レンズ義務化、さらに良いのは偏光板レンズつきのゴーグルとかつければ、溺れている人の命を守れるのではないかと思うが、統計を見てみないとわからない。

 

活版印刷やデジタル媒体によるイメージ補助

活版印刷やデジタル媒体の機能一つは、イメージの補助によるイメージの固定観念の提供と強化も含まれるでしょうね。

 

・神話という言葉を使った批判

文芸や音楽、芸術、発明といったクリエイティビティを必要とするものに想像力は、表現する際に欠かせないのではなかろうか。神話なんて想像力の塊だ。想像力は、実用であっても、文化であっても欠かせないものだとしたら、イメージ補助があり、かつ、イメージを再構築する機会がなくなればなくなるほど、想像力が乏しくなるため、人類にとっての損失は計り知れない。

そう考えると人々が信じている思い込み等を「神話」と比喩して批判をするのは、人々の想像にすぎないという意味で批判してると捉えていいだろう。

大学の課題 ~ウメとサクラ~

 大学のレポートが面白い感じのに出来上がったので、編集して公開します。

 内容は、ウメとサクラの比較を通してわかった日本文化の形成(古典の時代背景等)です。私もウメとサクラを比較して見ていましたが、辞典の著者たちの方がウメとサクラをくどいほど比較しているところに注目です。著者たちのくどい比較のおかげで古典の時代背景が、高校時代に知っていればよかったと思うほどよくわかります。

 どうでもいいですけど、ジブリ高畑勲監督の「かぐや姫」という映画のかぐや姫がサクラの下ではしゃぐワンシーンは、時代設定を平安時代以降にしているため、あのサクラは必然なのです。

 前置きはこの辺にして、読者の皆さんの教養を深める、もしくは思い出す機会になれば幸いです。

 

・「私にとってのウメとサクラ」

 私は、一番人気がありそうなものよりも、二番手に注目する性格である。例えば、姉妹で芸能人として活躍している広瀬すず広瀬アリスがいるが、私は広瀬すずがいるからこそ、広瀬アリスに注目している。この姉妹以外に、一番人気がありそうなものよりも、二番手で注目する関係のものは、サクラとウメがある。私は、サクラがあるからこそ、ウメに注目している。

 ウメに注目することで気づいたことが3点ある。まず、サクラと違いウメの花びらは割れていない点に気づいた。次に、ウメの花は枝から直接咲いているように見えるのに対し、サクラはそうではない点があげられる。(手元にあったサクラのつぼみの写真)

サクラ



 最後に、ウメに注目することで気づいた節気と旧暦と新暦の関係について触れる。

 東京のウメは、2月初めに最初に開花し始める春を告げるような花である。個人の感覚だと批判するのはまだ早い。お正月(新暦1月1日)の年賀状に冬真っただ中にも関わらず立春と書いたりする。実は新暦の2月1日の節分が旧暦のお正月にあたる。ウメの開花時期が2月初め(旧暦のお正月あたり)であることから、春を告げる花といって申し分ない。ここから、旧暦の名残でお正月(新暦1月1日)の年賀状に冬真っ只中であっても立春と書く文化が残っていると私はウメから解釈した。

 

 次に、「日本人にとってのウメとサクラ」について両者を比較しながら見ることで、ウメとサクラの文化的背景がわかることについて述べる。

 

「日本人にとってのウメとサクラ」

 観賞植物として中国原産のウメと日本原産といわれるサクラは、両者の日本との関わりを論ずる上で比較される。

 そのことが、園芸植物大辞典のウメの項目の北村四郎が執筆した項目〔ウメと日本美術〕、斎藤正二が執筆を項目〔ウメと日本文化〕から読み取れる。また、同上の辞典のサクラ属の項目の岩佐亮二が執筆した〔サクラ類の園芸文化史〕、北村四郎が執筆した〔サクラと日本美術〕、編集部が執筆した〔サクラと日本文化〕からも読み取れる。

以下、参考資料。(強調は筆者が行った)

〔ウメと日本美術〕

「ウメは中国では、1929年に牡丹に代わって国花となり、花木のうちの第1位とされている。サクラは日本では国花とされており、花木のうちの第1位であるが、絵や工芸に現れたのは、ウメ、マツ、タケ、ヨシ、キク、ボタン、サクラの順である。民族主義が高くなる時代はサクラが大きく取り上げられた。」

引用:北村四郎,1999(1994),『園芸植物大辞典1――コンパクト版』〔ウメと日本美術〕,小学館.

 

〔ウメと日本文化〕

『ウメが中国原産であることは明らかであり、・・・・・・。事実問題として、こんにち見るごとき美しい梅花の色や姿や芳香や、肉厚の梅の実は、日本人の手によって改良、開発された。牧野富太郎『植物記』が「ウメが上古に我邦に渡つた時は多分種類は一種か二種か極めて鮮なかった事が想像せらるる、又其後支那から変つた種類が来たとしても其れは僅かなものであつたであろうが、其れが今日では我日本で四百種類内外の品種数に達してゐる所を以て観れば其多数の変り品即ち園芸的品種は我邦で出来たものである」と述べているとおりである。日本人がウメを美しく豊麗に変えていったと同時に、ウメのほうもまた、みずから植物進化をとげながら、日本人の文学趣味や美意識を美しく豊かなものに変えていった。ウメの進化と、日本社会の進化とが、歩調や段階を一にしたという意味で、ウメこそは代表的な「日本の花木」である。・・・・・・。』『万葉集を通じて、ウメの歌は、118首もあって、サクラの歌44首を圧倒しているのも、それゆえだろうし、平安時代に入ってからも・・・・・・、国風文化の極致のように称される『古今和歌集』においてさえ「ひとはいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」(紀貫之)の「花」は梅花をさしていた。しかし、摂関時代の到来とともに、・・・・・・、ウメに代わってサクラが花の王座につくように変化する。「左近の梅」も、いつのまにか「左近の桜」に植え替えられてしまった。中世になると、・・・・・・、全体としては、ウメはサクラの下位に置かれた。ところが、近世期からは、庶民の間に広く起こった園芸ブームの一翼をになって、庭園花木から鉢植え(盆栽)にいたるまでを含めて、品種改良の努力が重ねられ、名実ともにそなわる「日本の花木」となっていく。』

引用:斎藤正二,1999(1994),『園芸植物大辞典1――コンパクト版』〔ウメと日本文化〕,小学館.

 

〔サクラと日本美術〕

「現代では一般に日本人のもっとも好きな花木はサクラであろうが、古代ではサクラよりもウメの詩歌や絵が多い。これは中国文化の影響であるが、それでも古代からサクラの詩歌や絵がある。中国にはサクラ類はあるが、詩文や絵にはほとんど取り上げず、サクラ好みは日本独特である。」

引用:北村四郎,1999(1994),『園芸植物大辞典1――コンパクト版』〔サクラと日本美術〕,小学館.

 

〔サクラと日本文化〕

平安時代になるとそれまでの中国文化崇拝の風潮から国風文化隆盛の時代となり、花の観賞の中心もウメからサクラへと移っていった。「花」といえば、ウメの花をさしていた奈良時代からやがてサクラをいうようになり、平安京紫宸殿南庭に植えられた左近の桜は、一説によると承和年間にウメからサクラへと植え替えられたといわれる。・・・・・・。サクラが上流階級から庶民にいたる日本人のすべてに愛されるようになり、この花が日本人のすべてに愛されるようになり、この花が日本人の心情や生活感覚にぴったりの花としてもてはやされ、「花は桜木人は武士」といわれるまでにサクラは日本人を象徴する花となった。』

編集部,1999(1994),『園芸植物大辞典1――コンパクト版』〔サクラと日本文化〕,小学館.

 以上の参考資料のようにかなりくどくウメとサクラの比較が行われている。

 

 添付資料より、表1のように歌集のウメの歌とサクラの歌の首数から、奈良時代の日本における中国文化から平安時代の日本における自国文化のへの傾倒へと、移り変わっていることがわかる。

 まず、ウメとサクラの比較が行われる時代的、文化的背景を説明する。ウメには中国原産であることから中国文化ともいえる。一方で、サクラは日本原産といわれることから日本文化ともいえる。ウメとサクラの関係を理解する上、奈良時代は積極的に中国文化が政治や文化に取り入れた。それに対して、平安時代遣唐使を廃止したこともあり日本文化への傾倒が見られる。奈良時代の中国文化の積極的な取り入れた文化のひとつにウメがあり、平安時代の日本文化の傾倒として日本原産といわれるサクラがある。中国文化から日本文化への移行を表現する手段として、ウメからサクラへの移行が用いられたとも解釈できる。平安時代の名残かは定かではないが、現代においても日本のイメージの象徴としてサクラが用いられがちであることに注意したい。

 添付資料から、日本人にとってのウメとサクラを考えてきた。その結論として、極端な表現を使えば、日本のイメージの象徴としてサクラを用いるとき、ウメが日本の絵や工芸でウメが描かれている点、園芸品種や食用としてのウメの品種改良の努力が日本人が行ってきた点を無視して、安直にサクラを日本のイメージの象徴として用いられているように映る。

 

 

ウメの歌

サクラの歌

万葉集奈良時代

118首

44首

古今和歌集平安時代)岩佐亮二[1]

18首

70首

花鳥画(698件)北村四郎調べ[2]

113件(約16%)

60件

 表1:万葉集古今和歌集に選ばれたウメと歌とサクラの歌の首数[3]

 

 その他にウメとサクラの大きな違いとして、サクラは観賞用が主であるが、梅は観賞用と食用として栽培されており、日本の食文化とも根強い関係がある。日本の花としてサクラをあげる人々にとっては皮肉であろうが、日の丸弁当の材料は米と梅干である点に注意したい。

 

終わりに

 ウメとサクラのどちらが日本の花木かの議論は、歴史的、文化的背景を踏まえて、両者を比較することにより、奈良時代の中国文化、平安時代の日本文化への傾倒のように時と共に移り変わる日本文化を知ることができる。これを踏まえると、民族主義への傾倒として日本原産といわれるサクラへの愛着、日本の象徴としてのサクラの記号化も読み取れる。

 このことから、日本の教養を身に付ける上で「日本人にとってのウメとサクラ」は良い題材といえそうだ。

 

脚注

[1] 岩佐亮二,1999(1994),『園芸植物大辞典1――コンパクト版』〔サクラ類の園芸文化史〕,小学館.

[2] 北村四郎,1999(1994),『園芸植物大辞典1――コンパクト版』〔ウメと日本美術〕,小学館.

[3]1999(1994),『園芸植物大辞典1――コンパクト版』「ウメ」「サクラ属」,小学館.より筆者作成。

 

以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

付録

 日本では、松竹梅を順に位が高いという位置づけだが、中国では松竹梅は冬の雪の下等であっても緑を保ち、梅は寒中に咲くことから「歳寒三友」として縁起の良いものとされている。日本でも松竹梅で一緒に着物の柄等で用いられている。

 ただ注意欲しいのは、中国の歳寒三友としての松竹梅は順に位が高いという位置づけはない。松竹梅の順位付けは日本でなぜか用いられていものという点に注意して欲しい。

 植物は比べるものではない。